食遊記2007中東編


イスタンブール

 飛んでイスタンブール♪いよいよやってきました。ご存知ヨーロッパとアジアが繋がる町。ボスポラス海峡を船や橋でアジア側とヨーロッパ側を簡単に行き来できます。モスクあり教会あり。文化もヨーロッパとイスラムの文化が上手に交じり合っている気がします。英語も若者にはだいたい通じるので不便はありません。一時期、日本人と見たらぼられたり高い絨毯を買わされるという悪評のグランドバザールに行きましたが、特に問題はありませんでした。観光客向けなので高く、粗悪なものもあるので見て回るくらいが丁度いいかもしれません。私はこれからイランに向けてバスで旅をしなければならないので、絨毯なんて買ってもじゃまになるだけです。
 料理はやはり代表はケバブ(焼き肉料理)の定番のあの重ねた肉を削ぎながらパンに包んでくれるドネル(回転)ケバブ。元祖トルコです。これがアラブ世界に渡りシャワルマ(ひっくり返すというトルコ語が訛ったもの)やメキシコに渡ってタコスパストール(羊飼い式タコス)になりました。フランスやイギリス、ヨーロッパでは今やファーストフードの定番となっています。日本では時々祭りや屋台カーで見かけるくらいでしょうか。トルコにはまだまだ沢山の煮込みやスープ料理、デザートがあります。世界三大料理と言われるのに疑問を感じていましたが、今やっと納得しました。やはり文化が重なるところに食の多様性が生まれます。

スルタンアメフット周辺と宮殿

↑泊っていた安宿共同部屋2000円の目の前のキオスク。昔の建物を利用しているのがしぶい。街自体あちらこちらがアンティークであり世界遺産。  ↑庶民的な定食屋(ロカンタ)は旅行者の見方。いろんな煮込み料理を食べることができる。
あるロカンタの屋上からブルーモスクを眺める。
パプリカなどの香辛料の入ったハンバーグ”キュフティ”をトマトソースに漬け込んだ”イズミルキュフティ”トマトの酸味とそれを吸い込んでやわらかくなった肉のハーモニーが最高。
鶏肉や野菜を細かく切ってトマトソースで炒めた”タウっク・ソテ”、トルコの煮込みはトマト味の料理が多い。
ご飯は思ったとおり塩からい。麦の粒を入れたピラフも有名。ビネガーでサラダ風にするときもある。
誰が言ったか知らないが、界で最も美味しいといわれるトルコのパン”エキメッキ”。ちなみに料理は”イエメッキ”と呼ぶ。なんか日本の料理=ご飯と同じように、パンを主食であり大切なものとして扱っているのがわかる。
トプカプ宮殿の北側にある国立考古学博物館入り口。ヒッタイトのシンボルでもあるライオンの像。どうみてもコミカルな顔がドラえもんに見えてしまうのだが。 国立博物館、オリエント博物館、タイル博物館など3つが同じ場所にあり、全部見るとかなり疲れる。庭には半壊したレリーフが並ぶ喫茶コーナーがある。観光客も猫もくつろぐ。ペルシャ猫はこちらが本場。
タイル博物館。外部も内部もブルーの幾何学模様のタイルが美しい。 牛のレリーフ。古代から牛は大切な家畜であったことが解る。トルコ人は元はモンゴロイドで中央アジアの遊牧騎馬民族であった。今はウズベキスタンあたりだと言われている。ウズベキ語とトルコ語は近い。隣のイランのペルシア語とは似ていない。
アヤソフィア寺院 元はギリシア正教の大本山、イスラム寺院に姿を変えた。内部の広さ、美しさに圧倒される。 200年間塗りつぶされていたフレスコ画が復活。今も修復作業は続いている。
スルタンアメフットジャーミー。内部は2万枚もの青色のイズミックタイルが張られているため”ブルーモスク”とも呼ばれる。入場料寄付制。信者がいるので、参拝には時間制限あり。
ミナーレ(塔)が六本もあるモスクは世界でも珍しい。
夕方にはブルーモスク周辺の公園に人々が集う。アイスクリームやジュース、お菓子売りが出てくる。観光客だけでなく、トルコの子供にも人気。

イスタンブール


新市街の上のほうにあるトルコ軍事博物館。9000点にものぼる、イスラムの弓やサーベルや銃が展示されている。数や美しさでは世界一の博物館だろう。カメラ館内別料金。でも写真はいらないと思う。 15:00中庭では世界的にも有名なトルコ軍楽団による演奏と行進が行われる。オスマン朝に発展した楽団を見た世界各国の軍隊がまねをした。
 トラムが走る新市街では外資系のファーストフードや銀行、ブティックが立ち並ぶ。ヨーロッパと変わらないおしゃれな若い女性も歩いており、ここがイスラムの国とは思えない。 新市街はヨーロッパと同じであまり面白みにかけるが、ガラタサライにある市場路地は面白い。魚屋の横にシーフードレストランや屋台が並び新鮮な魚をその場で調理してくれる。
イスタンブールの屋台でよく見かける”カラマル・タワ”イカのリングフライ。タルタルソースをかけることもある。
ボスポラスクルーズ。大型フェリーに乗ってボスポラス海峡を北上、黒海付近の村にたどり着く。途中海峡にかかる橋をくぐる。F・スルタン・メフメット橋は日本の海外援助の一環で作られた。たもとには瀬戸大橋の姉妹橋のプレートがあるらしい。車1日15万台が行き交うトルコ人には欠かせない交通の要所となっている。 ボスポラス海峡の端から黒海を望む。チョウザメをはじめとした高級魚が取れる。
ボスポラス海峡の端の漁村アナドルカバブの港にはシーフードレストランが並ぶ。トルコの軽食で有名なサバサンド。日本人には少し変に感じるが味は最高。脂ののったサバを鉄板で焼いてタマネギ、トマト、サラダをサンドイッチして食べる。味は塩とレモンでさっぱり。400円くらい。 漁村で見た干し魚。
ケバブなど肉料理だけでなく、イスタンブールや北の黒海付近では魚をよく食べる。肉に比べて値段は若干高いが。料理法はスパイスをつけて焼くか揚げるといったシンプルなもの。ギリシア風ではオリーブオイルなどにマリネする。
イスタンブールの歴史地区と新市街を結ぶ橋の上では魚つりを楽しむ市民でいっぱい。アジがつれるらしい。  金角(ゴールデンホーン)湾に沈む夕日は世界中の人々が歴史の中で絶賛してきた。実際に夕日に浮かぶモスクのシルエットを見て納得した。軍事的にも重要な海峡であったため戦が絶えなかった。多くの人が川底に眠る。

廿日市国際交流協会誌ブロッサム連載記事

トルコ・古き友の国
1980年イラン・イラク戦争が勃発したときに、テヘランに取り残された日本人を、危険を承知でジャンボジェット機を飛ばし、軌跡の救出を行ったのは日本でもアメリカでもなくトルコであった。彼らは"エルトウール号難破事件(以下参照)"の恩があるから当然のことをやったまでだ、と言ったそうである。トルコは100年前の日本との友情を覚えていたのである。
 トルコほど親日的な国はあまりない。かつては日露戦争のときにトルコを苦しめていたロシア帝国を同じアジア人が破ってくれた、という話も聞いたが、今の若者は日本のハイテクや経済に興味があるようだ。日本人でなくても誰にでもトルコ人は非常に親切である。イスタンブールから一路イランに向けてバスに乗って旅をしていたとき、田舎では英語が全く通じないことがあった。しかしバス停に行ってうろうろしていれば通りすがりの人がバスやチケットの買い方を教えてくれ、バスに乗れば隣の席の人が案内をしてくれ、町に行けばホテルまで案内してくれた。とにかく私が何人であろうがおかまいなしに、トルコ語で話かけて親切にしてくれる。私も必死で片言のトルコ語とジェスチャーで返答する。外国人とコミュニケーションをとるのには、外国語はしゃべれるというのは二の次だなということを感じた。
さて料理と言えばやはり代表はケバブ(焼き肉料理)の定番のあの重ねた肉を削ぎながらパンに包んでくれるドネル(回転)ケバブ。元祖トルコ産です。これがアラブ世界に渡りシャワルマ(ひっくり返すというトルコ語が訛ったもの)やメキシコに渡ってタコスパストール(羊飼い式タコス)になった。今やドネルケバブはフランスやドイツなどではファーストフードの定番となっている。日本でも街頭や祭りの屋台などで時々見ることも多くなった。ケバブだけでなくトルコにはまだまだ沢山の煮込みやスープ料理、ヨーグルトを使った料理などがある。中華、フランス料理に続き、世界三大料理と言われるのに疑問を感じていたが、実際にトルコに来て、食べて納得した。ヨーロッパとアジアの"食のシルクロード"がつながる交差点ではそれぞれの料理の良い部分を取り入れた食文化の多様性が生まれるのである。
 飲み物はやはり"チャイ"だろう。小さなグラスにストレートで注ぐ。絨毯屋などに行くとこれを出してくれる。そしてゆっくりチャイを飲みながら時間をかけて商談が始まる。他にもバスを待つ間、家を訪ねたときなど、あちらこちらでチャイをご馳走になった。一日10杯は飲んでいたと思う。有名なトルキッシュ・コーヒーは客人や食後など、一日1回程度特別なときに飲む。小さな鍋に粉を入れ沸騰させ、それを小さなデミタスカップに注ぎ、上澄みだけを飲むのだが、急いで飲むと口の中に粉が残りザラザラしてまずい。一緒に飲んだトルコ人の若者は最後に飲み終わったカップをソーサーの上に裏返しにして残った粉の形を見て占いをしてくれた。彼曰くプロの占い師ではないので、あまり当たりはしないが、コーヒーを飲むときの話のネタとしてやるらしい。トルコの諺に「一杯のコーヒーは50年の親友のように飲む」というものがある。友情とお客をもてなす時間を大切にするトルコの人々の豊かさを感じた。

"エルトウール号難破事件"
1890年トルコの使節団が同号で来日したが、帰路、台風にあって和歌山県串本町大島の沿岸で沈没、乗組員の多くが溺死してものの、約70人の乗組員を大島の住民が救出し、手厚く介護した。後に全員日本の船で無事に帰国。この話は友好の象徴としてトルコの教科書に載って広く知られている。