BLOOSAM連載記事「中米グアテマラだより」     

1999年12月 ブラジリアン料理とダンスのクリスマスパーティー  


レポートby放浪料理人コータ
 12月20日に国際交流会の企画で中央公民館にて行われました。ポルトガル語教室の先生、生徒達が中心となりブラジリア料理(中南米のほとんどはスペイン語でブラジルのみがポルトガル語を公用語とする)を作っていただきました。参加人数50人程で前日から仕込みをしていたそうです。私も当日ターキーやサラダやポテトなどのクリスマス料理を作りました。
 ブラジル料理、南米料理自体日本人には馴染みが浅いのではないでしょうか。黒豆をソーセージや干し肉、豚足、ニンニク、玉ねぎなどと煮たフェイジョアーダは一見ぜんざいの様で不思議ですがダシのコクが豆に染み込んでボリュームのあるスープでした。コシーニャは「小さいもの」という意味でパーティーのスナックになりました。鶏肉で煮出したダシを小麦粉(又はじゃがいも類)に吸わせ捏ねて生地を作ります。ほぐした鶏肉を生地で包み揚げます。形は小さなコロッケボールの様ですがもちもちしてスープの味がついた生地が独特でした。その他揚げたスナック類が出ました。今年は分量が多く皆で食べきれないほどでした。
 参加者もブラジルやペルー方、日系の方など異国情緒あふれる会になりました。私も海外で暮らしていたときにパーティーをやると年齢や国籍を問わずいろんな人々が集まり、その国々の料理とお国自慢があったのを思い出しました。それが週末では普通に行われていました。広島でも今後このような交流の機会が増えてくると期待します。
 会の最後の方で南米のダンスミュージックがかかりました。最初はおそるおそる踊り始めた人達も最後にはノリノリで終わりました。
 今回参加してブラジルの事を少し知ることができました。しかし日本には現地の情報がほとんど入ってきませんし交流の機会も少ないようです。今後より日本(広島)と中南米の文化交流を深めていく事が大切だと実感しました。そこで私は2000年より2年間中米グアテマラに青年海外協力隊員として着任にあたり、現地の食や生活、文化をこの紙面で紹介していくことができればと思います。     請うご期待
 

2000年1月訓練所での講座、スペイン語


 私は先月から広島を離れ真冬の長野(駒ヶ根市トレーニングセンターKTC)に来ています。そうです前号のBLPSSAMでお伝えしたとおり私は今、中米グアテマラに食品加工アドバイザー(廿日市と中米の橋渡し?!)として派遣されるべく青年海外協力隊の訓練中なのです。協力隊とは外務省の外郭団体JICAが無償技術援助活動の一環として行っている物で20歳以上の青年を技術者(農業や教師やスポーツ、芸術と分野は幅広い)として2年間途上国に派遣するものです。その為にテストや面接そして2ヶ月半の訓練があります。でもそんなに特別堅苦しい物でも大変なものでもありません。それに技術援助とはいえ人と人の顔の見える援助、交流が主目的でそういう意味では廿日市国際交流協会の行っている文化交流、青年ボランティアも似ていると思います。
KTCの中は暖房が効いて3食美味しい食事付きでジムもあります。外にあまり出られず毎日スペイン語(人によっては英語やベンガル語、フランス語)の授業があります。授業内容は任地で仕事ができるようになるためにレベルが高く日本の学校でしか語学をやったことが無い人には最初はつらいようです。ちなみにスペイン語がa,i,u,e,o,で英語のようなアとエをまぜて発音するとrestaurantやoやblossomのような表記以外の発音は無く。RESTORAN(レストラン)やFLORAR(フロラル)と読んだまま発音します。ただしJはハと発音しHは発音しないのでhiosima en japon(イロシマ エン ハポン)になるところだけが違います。またスペイン語ができると中南米やアメリカの西南部やスペインで使えるほか同じラテン系のイタリア語やフランス語も楽に習得できます。始めてみませんか?広島にもいくつか教室があります。
私のクラスの先生はペルー人でとてもフレンドリーです。先日も先生宅でペルー料理のパーティーをしました。去年の交流協会のクリスマスパーティーでも出た"フェイジョアーダ"やレンズ豆の煮物(豆料理が豊富)や魚介類のレモンマリネ"セッビッチェ"などが出ました。もちろんサルサ、メレンゲ(中南米のダンス)も皆で踊りました。
またここの生活で楽しいのは各大学や国際機関や協力隊のOBが訪れ話をしてくれる講座や、各自が開く自主講座です。海外経験が豊富であったり、各専門分野に強い人達が集まるのですから面白い話しが聞けます。環境、天気予報、地図を使って森の散策、水の講座、etc、僕も先日「海外で役立つ日本料理講座」を開きました。廿日市国際キッチンのような感じで寿司や天ぷらを楽しく作りました。次号もここKTCからレポートします。グアテマラは4月からです。
 
                     

2001年3月訓練所講座


 広島の皆様こんにちは。先月号でお伝えしたとおり長野県駒ヶ根市青年海外協力隊訓練所(KTC)にて訓練中です。早いもので2ヶ月半の訓練も残す所あと数日になりました。語学訓練や集団生活など大変なこともありましたが今では全ていい思い出になりました。皆が卒業式を迎える学生の様に旅立つ不安と希望を感じる今日この頃です。春の到来と同時に我々は途上国に旅立ちます。今月号が発行されるころは丁度広島を立ったころだと思います。今年ぐらいは平和公園で最後の桜がみられるといいのですが、、、。 
 さて今回は訓練所の科目についてお伝えします。訓練の大部分が語学訓練に当てられます。僕の場合は毎日朝から夕方までスペイン語を勉強しました。テストも文法の筆記から聞き取りにスピーチと様々な語学力が試されます。これだけやったからこそ2ヶ月半も過ぎるとたいていの人が片言でも話せるようになります。クラスによっては日本語を話すと先生に罰金を取られること所もあります。ですがやはりこれぐらいでは任国の仕事場で技術を教えられるほどの語学力はまだ及びません。僕らにはまだ現地の学校での語学訓練が待っています。一から語学を学ぶことの難しさ楽しさを感じます。
 語学以外では途上国で暮らすために必要な様々な講座があります。たとえば「交通安全講座」;現地ではバイクで牛にぶつかる事故や道の穴に落ちる事故などもあります。「安全危機管理講座」でも同じく自分の身は自分で守るのが基本だと言われます。(でも強盗にあっても抵抗することは厳禁!生兵法はケガのもとです。おとなしく小銭を入れた財布でも渡しておきましょう)。途上国でもジェンダーにおいて社会的に差別を受け易い女性の位置を改善することが社会の発展に大切と考える「WID講座(女性と開発)」。海外で生活するにあたりカルチャーショックによるストレスをなるべく無くし現地の人たちと共に働けるための「異文化適応講座」などです。他にも「座禅」や「人と上手くやっていくしゃべり方」などの変わった講座もありました。
 所外においても地元の人達と交流する機会があります。地元の中学校に出かけていって協力隊とは何かをゲームやクイズをやりながら解説したり、地元の高校や青年会議所の人達とスポーツをしたりしました、僕らを知った学生さんがいつ隊員を目指してくれる日がくれば嬉しいかぎりです。また近くの農家や養護施設、幼稚園にボランティア活動をすることもありました。僕は農家のおじいさん宅に行ってあまり仕事もせずにコタツでお茶を飲んで世間話に花を咲かせていました。長野の農家では野沢菜や味噌漬けや梅の甘漬けなどをどこでも造っているようです。寒い地方でビタミン不足にならなずに冬を越す昔からの知恵でしょう。またかつて山間部で虫が貴重なタンパク源であった名残で今もイナゴや蚕、蜂の子、ザザムシなどを食べます。寒露煮は苦味と甘味があり酒の供に最適?!
このように家族の方にもてなされてしまって、逆に僕がボランティアされてしまったようです。
このように協力隊は海外だけに目を向けるのではなく、地元の人との交流も勧めています。市や県の人達の理解、また国民の皆様の理解あってのこの活動があるのだと強く感じます。そして僕もこの様な個人的な形でも広島の地元の紙面で伝えていく事は大切な仕事であり楽しみでもあると思います。もうすぐ日本を発ちます、現地からは上手く通信ができるかどうか分からないのですができれば今後はグアテマラから現地情報を発していこうと思います。

                    

2000年5月トドス事件


廿日市の皆さんこんにちはガテマラ協力隊員の羽熊です。4月号でお伝えしたとおり訓練を終え広島を離れここガテにやってきました。丁度1ヶ月ほど前にこの国での事件が日本を騒がしたと思います。そうですウエウエテナンゴで日本人旅行者の乗ったバスが現地住民に襲われて死傷者が出てしまうという残念な事件でした。日本での報道ではステレオタイプ的な先住民族=野蛮な未開で危険な国をイメージさせるが多かったのが残念です。事件の起きた所も「秘境」なんかではなく70年代から旅行者が入り写真や観光のパンフでよく紹介される平和な田舎の村の市場でした。本当に不運が重なった事件としか言い様がありません。やはり36年に渡る内戦、軍による虐殺がこの国の人々に残した爪痕は大きな物のようです。ですが通常、首都を除いて地方の街、村はのんびりしています。私が語学訓練を受けていたアンティグアという街も人々は親切で夜でも一人で歩けて平和そのものでした。皆さん安心してガテマラに御越しください。
さて私達隊員はそのアンティグアという町で約1ヶ月の語学訓練をうけていました。ここは1500mの高地にあるコロニアル風の町並みと石畳が残る街でまるで夢の様な所です。欧米人旅行者、日本人旅行者も多く、旅行社や旅の宿、バーやインターネットカフェまで何でもあります。また中南米を旅する旅行者はここを出発点として1ヶ月ほどホームステイしながらスペイン語学校に通う人が多いです(安いし、早いし、安全だし)。私のファミリーもとても良い人達で食事時に各国の下宿を含め皆で片言のスペイン語で会話するのが楽しみでした。(実は私は活動中怪我をして再びここに戻って療養中なのです)。また4月にはセマナサンタという山車を担いで1晩かけて地面に描かれた絵を踏んで歩く独特な復活祭がありました。またここに滞在されている日本人の方も多く(サルサを習っている人が多い)日本料理屋も2件あります。くわしくは広島出身の方(著者とはここからメールでお互いに情報交換を続けています)。が書かれた「ガテマラゆらゆら滞在記」を読んでみてください。ここの生活や文化が一般視点で書かれた良い本です。

 

2000年10月 ラテンダンス文化について


 廿日市の皆様おひさしぶりです。ここグアテマラの地方都市コバンに赴任してから早くも3ヶ月が経ちました。
いきなりパソコンが壊れて広島に修理に出し、メールも原稿も送れないなどのトラブルがありましたが、それ以外は仕事も生活も順調にいっています。今回はここの重要なダンス文化についてレポートします。
 去年の12月20日に廿日市国際交流会の企画で行われたブラジリアンクリスマスパーティーを覚えていますか?今年も行われるのではなのでしょうか?くわしくは今年のBLOSSAM2月号の記事を読まれてください。
そのパーティーの最後にラテンダンスが始まりましたが、僕もその時は「面白いなあ」ぐらいにしか感じていなかったのですが。ここに来てそれがこの国の非常に大切な文化、習慣であることを身に知らされました。というのも街のあちこちで音楽が流れ、週末飲んだ後はディスコに行くか、もしくはバーが自然に踊る場所に変わります(日本では2次会はカラオケですが)。
パーティーや祭りには必ずつき物です。日本のラテン系の先生宅のパーティーに呼ばれた時も、小さな下宿部屋(4畳半)に音楽が鳴り響きダンスが始まりまった事を思い出します。ラテンの血と言いますが僕も最近血の中にまで音楽が染み込んできたのか自然に体が動き出します。
グアテマラ人はラテンの国では内向的で保守的な民族なので地方に行くと「ディスコなんて親が許さない」など言っている娘も、村の祭り(盆踊り)になると朝まで踊ることもあります。子供から老夫婦のカップルまで皆踊ります。ラテンアメリカという言葉は16世紀より中南米を植民地としたスペインやポルトガルなどの国々がラテン語から派生していたためラテンアメリカと呼称されるようになりました。
そして彼らがヨーロッパから持ってきた音楽と先住民の土着の音楽、そしてアフリカより奴隷として連れてこられた人達のそれが混ざり合ったものが今のラテン音楽の特徴と言えます。
ジャマイカの黒人文化のレゲエ、コロンビアのアフリカドラムが融合したクンビア、ドミニカのメレンゲ、ソウルミュージックとキューバ音楽の特徴などが融合しサルサが産まれニューヨークに渡りヒット、洗練されました。その他キューバのルンバやアルゼンチンタンゴ、チャチャチャマンボなど(逆にここらは日本の上の世代の方々の方がご存知なのでは?)
グアテマラの地方ではマリンバ(アフリカの木琴が発祥)などの演奏がよくなされます。カップルにはサルサやメレンゲ、最近の青年層にはアメリカのポップスなども人気です(全世界共通?)。
やはりラテンダンスの面白い所は男女がペアになって踊る所でしょうか。ダンスホールに行けば初めて会った人とも組んで踊りますし、友人も増えます。たとえ最初は変なアジア人が来たと見られることがあっても、踊りだせば皆うちとけます。音楽やダンスは人種や言葉を越えた共通のものですね。
誘うときは手を出してバイラモス!(踊ろう!という意味。西城秀樹が歌っていましたよね)ただそれだけ。最初に必要なのはちょっとした勇気とダンスのセンス(ノリ)でしょうか。
1年半後に日本に帰るころにはもっと広まっているといいのですが。
ではこれから街のマリンバコンサートで踊りにいくのでここらへんで、、、、


2000年12月クリスマス


この原稿が載る頃にはもう日本は正月ですね?海外で住んで一番物足りなさを感じるのがこのころでしょうか。海外では大晦日は花火を盛大にあげて飲んで騒ぎます。1月1日は二日酔いでしょうか。日本の大晦日の様に静けさの中に鐘の音が聞こえてきたり。元旦のように冷えこんだ朝に一種の神聖な空気の流れる時間という物がありません。オーストラリアにいたとき気分だけでもと御節料理も造ったのですがやはり真夏(南半球は季節が逆)に汗をかきながらおしるこをすするというのはダメでした。御節は正月の雰囲気があってこそ御節だと気が付きました。
 昨日は中米に来てからの初めてのナビダッド(クリスマス)でした。一週間前から街にはツリーやイルミネーションが飾られデパートではクリスマス商戦が展開されていました。5年前まで内戦が続いたこの国でこういった潤いが与えられるのはそれだけ平和になってきたということで嬉しく思えます。しかし日々の貧困の中でプレゼントどころではない人たちも大勢いるのも現実です。このころ人々は家族の元にプレゼントを持って帰ります。日本のコマーシャルで流れるイブは恋人同士でというのは日本独特のようです。
我がホームステイファミリーでも親類一同が集まりクリスマス料理とスパークリングワインを楽しみました。七面鳥はここの名産にもかかわらずこのときは出ません。ケーキも素朴だけど味のあるベークドフルーツケーキです日本の白いスポンジケーキは海外ではほとんどありません。またドライフルーツを使ったポンチもよく作られます。夕食後、深夜から教会でミサがあります。
そしてその後は子供達の楽しみなプレゼント。ですがここでは大人も楽しみなのです。なぜかというとプレゼントがツリーの下に山のように置いてあり、そこに誰から誰へというのが書いてありそれを子供、大人皆に配るからです。もちろん寝たあとにツリーの下のを枕元に置く家庭もあります。ここでも子供達はパパノエル(サンタ)が大好きです。3つや4つもらう人もいます。僕も2つももらえました。外国人で他人の私まで家族と同じようにクリスマスに参加させてくれる心の広さと暖かさを感じました。
25日は全て休日に入ります。ちなみにこの習慣はスペインからの伝統です。それと最近のグアテマラ独特の習慣が花火、爆竹を鳴らしまくるところでしょうか。祭りがあると街のあちこちで鳴りまくります。10数メートルという中国の旧正月で見るような物まで鳴ります。暴発、出火もありかなり危ない。なぜこんなに爆竹が好きなのかは謎です。内戦の記憶を呼び出さないのだろうか?僕も最初は夜中に道端で聞くと銃声かと思い伏せたこともありましたが、今は慣れました。
とにかく平和が一番、それが21世紀の人類にプレゼントされる事を願いつつ。
それではよい年を アディオス


2001年新年号21世紀への希望。   


放浪の料理人コータ グアテマラより
 20世紀を振り返ると史上最悪の近代戦争が起こり、冷戦、その後も核の恐怖は残り、南北格差は広がり続けています。21世紀は国境を越え世界が1つになることの必要性がさらに問われる時代となるでしょう。ITの進歩により世界は縮まるでしょうが、しょせんは情報、それを超えた人と人の顔の見える交流が必要です。それが普通になるような多文化主義社会を望みます。豪州時代の話ですが、韓国人と同居、中国、ベトナム人と働き、ドイツの友人と飲みに行き、アイルランド系の家族に夕食を招待され、、、皆各民族性を持ちつつも共存していました。もちろん彼らは皆豪州人、そこには外国人という言葉すら無いようでした。今、途上国で暮らし、時にはアジア人として差別される立場になったとき人種差別の愚かさが本当に理解できます。多文化社会それは西洋化の真似では無く、むしろ日本の文化を守り誇りにすること、同時に他を対当に尊重できる社会、そして個人であると思います。和を尊ぶ日本は可能だと思います。「人類の誰もが〜中略〜"和解"への道を拓くよう世界に訴え続けたい。」今世紀最後の広島市長平和宣言より。


2001年8月号 "外国人"とは


BLOSSOM6月号の記事で南米を初めとした出稼ぎ労働者への差別の記事がありました。日本ではかつてより無意識のうちに海外の人を"ガイジン"と呼んできました。"外国人"という単語はForeigner(スペイン語Exranjero)つまり属性を示すもので、American, Japanese,と同じで使っても何も問題がありません。しかし、ガイジンという言葉は"外の人"、つまり我々とは違う人たちという一線を引いて差別を生み出してしまう言葉です。日本の文化を理解し、日本の友達を作り、そこに同じように生活しようと努力している人達に対しては、たとえ知らずといえども指差してガイジンと言われるほど悲しく失礼な行いは無いでしょう。これらの人種差別は受けた者しか解らないものです。
では日本人が中南米などで生活したとすれば何と呼ばれるのでしょう。それは"チーノ(中国人)"です。彼らにしてみると日本人も中国人も同じ目の細いカンフーをやる人達(笑)と思われています。愛嬌で目の子供をそう呼ぶときはありますが、たいていの場合は東洋人を蔑んだ意味が含まれています。国によっては道に唾を吐きながら言われたり、Chino come raton(チノはネズミ食べる)とかチャンチュンチョン(?)とかを道で通りざまに言われます。そこでもやはり中南米への出稼ぎ労働者、華僑への不理解、差別、ねたみが感じられます。我々の様にその国の発展の為に協力に来た日本人ですらそう言われてしまいます。ちなみに欧米人は"Gringo(よそ者)"と呼ばれます。(もちろん大半の人は親切で「Hola Amigoやあ、親友」とか「hola paisanoやあ、同胞」と言ってきます。)
ここで初めて被差別される側の気持ちが解ります。これを体験し、帰国した人達は決して来日外国人に差別的な言葉を掛ける事はないでしょう。
日本は国際社会と言われ、英語を義務教育に入れてきました。しかしまだ外国人特に第三世界(途上国)の人々に対する不慣れさや文化の不理解を感じます。差別はそこからくるものでしょう。日本ほど階級差別の少ない国は少ないと思います。人種差別においてもアメリカや中南米のそれの方が強く感じます。ここの国においてもつい数年前までただ先住民族という理由だけで何十万もの虐殺がありました。
ある国際理解教室で先生が国際社会(抽象的な言葉)とはどういう社会でしょうと質問したとき大人は答えられなかったが、1人の子供が答えた「隣に住んでいる人を外国人と思わなくなる社会」。この地球上で外国人という言葉すら死語になっている国や地域は実際に存在します。
アディオス アミーゴス 

  
2001年9月号異文化との対話

先月の初めにここガテマラでは税率の値上げに対するデモ、ストライキがあちらこちらで起こりました。家の前の公園でもそれが暴動化して、市町の建物のガラスが割られ扉は放火され、暴徒と化した一部の民衆は車やバスを壊し始めました。こういう時は慌てずに家に閉じこもっているのが一番です。暴徒のエネルギーは大体3時間くらいといわれます。この時もしばらくすると軍隊と警官隊に制圧されました。次の日からは人々は何事もなかったように平日の生活に戻りました。

海外で暮らすとき、暴動と同じように誘拐、爆弾などのテロにも気をつけなくてはいけません。昨日、アメリカで悲惨なテロが多発しました。アメリカに最も近い途上国、ここガテマラでも大きなショックでした(時差が無いのでニュースが直接来ました)。今後、経済面にも悪影響が出てくると言われています。私にも一ヶ月くらい前からここのアメリカやイスラエル大使館に近寄らないなどの指示がありました。海外で暮らすときは選挙期間中に人の集まる所に近寄らないなどの対策、以前働いていたホテルでは怪しい小包の取り扱いや犯行声明電話の受け答えなどのオリエンテーションもありました。しかし、今回のアメリカのように予測が難しいものです。

今回の事件で心配なのは、イスラム世界に対する偏見と敵対心が助長されるのではないかということです。下手をすれば戦争にもなりかねません。日本においてもコーランを破り放り込むといった事件が起きたと聞きます。テロリストやイスラム過激派は一部であって、イランのハタミ大統領の様に文明の対立から対話への道を切り出そうと世界に訴えている人も多いのです。ただ我々日本人はイスラム社会に対する接触の少なさや欧米から入ってくる情報などの為に偏見を持ちやすくなっているのではないでしょうか。世界の人口でいえば5人に1人はイスラム教徒だというのに。

以前イスラム国を旅していた頃です。刺すような日差しの中、通りかかった美しい国立モスクに見取られ、入ろうとしたとき門番に止められました。観光者の服装では入れないと言われて諦めたとき、彼がムスリム服を貸してくれました。モスクの中に座ると床がひんやりしてコーランの祈りの歌が心地よく聞こえてきて、気が付いたら眠っていました。イスラム教は厳しいと言われますが、現地の人から聞いてみると寛大だなと思いました。国にも違うと思いますが、若い女性は井戸端会議になると被り布を脱ぎ気楽にし、夜はボーイフレンドと親の目を盗んで会い。男性も断食の最中にも隠れて食事をし、時には隠れて酒を飲み。と、何処の国の若者でもやっている事をしているのです。

ある経済学者が言っていました。次の戦争を止めるのは貿易と旅だと。経済的な結びつきを作ること、そして個々人が旅をすることにその国の文化を知り、人と知り合うこと。

戦争なんてものはお互いの偏見、誤解から起こることもあるのです。社会そして個々人が異文化に触れること、衝突よりも対話することの大切さを今だから再認識する必要があるのではないでしょうか。


2001年10月号 ラテンパーティー

先日、国連事務所の友人達とパーティーをしました。コーフィーアナンさんがノーベル平和賞を取ったのが先日、でもそれはあまり関係無しのようでした。
 参加者はガテマラ、チリ、ペルー、欧米、アルゼンチン、キューバ、日本人、他など多国籍。でも皆スペイン語を喋るのでコミニケーションは計れます。

 日本料理をメインにしたいとのことで、照り焼き、肉じゃが、寿司、魚のから揚げ、などの人気のメニューを作りました。
寿司は皆名前は知っているけど高いし食べたことがないというので、寿司酢作り、巻き方から教えてあげると皆大喜びで作り出しました。
チリなどの比較的海産物を食べる習慣の地域の人は魚のから揚げや味噌汁を喜んで食べていました。ここガテマラではあまり良い魚が手に入らず食べる週間も少ないので市場にたまに良い魚が出たときは真っ先に買い求めます。
パーティーは昼から始まりました。といっても料理を作り始めるのがそれくらい、ひともぼちぼち到着して料理を手伝います。こちらでは約束時間という概念が少なく、特にパーティーとかになると約束の時間に1時間くらい遅れていくのが普通です。
5分前行動、時間どおりと教えられている日本人はこの感覚の違いでよくいらいらさせられますが、慣れるとお互い時間の事であくせくせずにすみ気分的に楽になります。日本に帰ったらやばいかな。

 料理を作り終え、食べ始め、ひたすらワインとビールを飲んで喋って、夕方になりました。
そして次はカラオケ、こちらでもカラオケは徐々に広がっています。友人達と曲を歌って楽しみたいという感覚は世界共通なのでしょうか。でもこちらのカラオケはマイクを皆で回して踊りながら歌うというなんともラテンぽいいカラオケでした。

 日本のように誰か一人が歌っているのを自分の番まで大人しく聞きながら待つよりも体が動いてしまうのでしょう。その方が楽しいですしね。そして夜中、その後に恒例のバイレ(ダンス)、皆で踊ったりパートナーと組んで踊ったり。僕も人一倍踊るのが好きなので率先して踊ります。日本でもサルサを踊るのかと驚いて聞かれます。やはりラテンの国で踊れるのと踊れないのではかなり楽しみが違ってきます。
ダンスはその後ひたすら続きました。途中で退散したのですが、だいたい12時くらいまで続くとか。12時間パーティー!家を貸してくれた所長も何も迷惑そうじゃないし誰も気兼ねしていない。家も広く踊れるし音楽を大音量でかけられるし。やはり日本ではこういうのは難しいなと思った。

 帰りの車の中で事務所のお所長曰く「私達は仕事もしっかりするけど遊ぶのも一生懸命だ。日本のサラリーマンはよく働くけど遊ぶのが下手なようだ。毎日休み無しで仕事をするのは逆に効率が悪い」
最後に質問「年に何回くらいああいう丸一日パーティーをやってるの?」。
「2週間に1回くらいかな」。
、、、、、まいりました。やはりラテンの遊びパワーにはかないません。


終回、国際協力と文化交流。02年4月
 
2年間、ここグアテマラで青年海外協力隊活動をしながら、国際協力と交流をテーマに何度かブロッサムに掲載させてもらいました。4月で2年の任期も終わり、グアテマラを離れ、日本に帰国しました。
この2年間を現地の人々と共に働き、暮らし、様々な技術を教え、それと同じくらい多くの事を学んできました。日本から途上国への活動というと、貧しい人々への物や技術の援助という考えがまず浮かぶのではないでしょうか。私は、国際援助もたしかに必要ですが、お互いの国際、文化交流も、同じくらい大切いうことに気付きました。いくら高い機材や技術を援助しても、日本の事、日本人を知ってもらわないと、我々は「ただ、海外から物をくれる物好きな外人」でしかないのです。同じく日本国民にとっても途上国は貧しい、文化も、楽しみも少なく、可哀そうというステレオタイプなイメージでしかないのです。
 どこの途上国でも独特の文化や習慣があります。それはどれが優れている、遅れているという尺度では計れないものです。中米では失業率や犯罪率も日本とは比べ物になりません。内戦で多くの人々も亡くなりました。それでも。人々は、今の日本人より楽観的で毎日を楽しむ事を知っています。ここには、日本が忘れてしまった事、学ばなくてはならない伝統がいくつも残っています。今、日本は他国と対等に、お互いの良いところを学び合わなければならい時代ではないでしょうか。
国際交流、文化交流という言葉は難しい事のようですが、もっと気軽に考えていいと思います。ある土地で違う国、文化圏の人と人とが知り合う、話しあう。それが最も大切なことなのです。その土地というのは日本国内でも先進国でも途上国でもいいのです。
 私は今後、グアテマラで学んだ文化や習慣を日本で紹介していこうと思います。これも、大切な協力隊活動の延長なのですから。
 6月、7月と、中米のラテンダンスや言葉、料理などの講座をします、講座案内を見てください。

Hasta pronto amigos en Hirosima