ここ、ブラジルの音楽と踊りの街、サルバドール。いきなりアマゾンでもらったデング熱で39度の高熱に悩まされること2週間、やっと回復しました。健康であると、普通の食事、水ですら最高に美味しく感じられます。普通に生活ができることがこんなに幸せなことかと再確認できます、病気の後は。熱帯の病気はやはり強いです。そんなジャングルの奥地に入ったわけではないのですが。
昔あるイギリスの調査団がアマゾンのジャングルの先住民族の村で薬草の調査をして帰って言ったら、その村人はイギリス人の持ち込んだ風邪で全滅したという話を聞いたことがあります。やはり、現代人があまり入ってはいけない自然界があるのかもしれません。
というわけで、病気も回復したので、今後も旅が続けられそうです。
マナウスという港町から途中サンタエレンという港町に一日滞在し、ベレンという港町まで、合計6日のアマゾン川下りの旅。船は小型のおんぼろ船。客室は無く、客はハンモックを各自持ってきて、つるして、寝る場所を確保しなければならない。船の中では気さくなブラジル人とビールを飲んで踊って、ポルトガル語を習って、楽しい旅になった。 鐘の音とともに食事が始まる。テーブルが小さいためなるべく早く食べて次の人に代わらなくてはいけない、戦争状態だ。ちなみに食事に使われる水も、シャワーの水も茶色のアマゾンの水だ。病気が心配な人はだめかもしれない。 |
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船の中での食事。つまりこれがブラジルの一般人の食事だ。フェイジョンという豆の煮物。フェイジョアーダ*は特別な日にしか出ない。白いごはんか、キャッサバ、鶏肉が牛肉。これを北部の人々はサラダも含めてぐちゃぐちゃに混ぜる。早く食べる為か、味の混ざったのが好きなのかどうかはわからない。 アマゾン川の夕焼け、船が出ては川に網を投げ込んで魚を捕っている。岸では糸と針にえさをつけただけの道具で釣りをしている。あまり収穫はないようだった。 |
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アマゾン川沿いの港での朝市。右はカリという鱗の大きな、まるで白亜紀から生き延びてきたようなグロテスクな魚、素揚げにすると殻のような鱗がさっと落ちる、身はタンパクで美味らしい。 写真右はピラニア、色々な種類があるらしい。アマゾンでの魚の調理のしかたは、魚とスープと塩くらいで非常にシンプルだ。サンパウロの日本人街でピラニアの刺身、味噌汁やから揚げを食べさせてくれる店に行った。刺身にしても臭みは無く、非常にタンパクな魚だった。ピラルクという魚は体調が3mにもなる世界最大の魚、身は脂が多めだが、柔らかく非常に美味であった。 |
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アマゾンにはいくつか先住民インディオ伝来の変わった料理がある。左のTACACAという料理はキャッサバを加工する祭に出る毒汁を茹でて発酵させたトュクピという黄色くて酸味のある汁で作られる。それを茹でて、エビやジャンブーとうい刺激のある薬草を加え、キャッサバ澱粉でとろみをつけたもの。独特の発酵の酸味と味がタイのトムヤムクンを思い出させる。私が中南米を回って見つけた2つ目の発酵食品である。 写真右、マニソバ。キャッサバの新芽を煮込んだもの。黒くてゴマのペーストのようだが、ソーセージなども入っており美味。現在、米を多食するようになったが、蒸かしたキャッサバを今でも主食としてよく食べる。 |
*フェイジョアーダはフェイジョン豆にもつ肉やソーセージ、骨付き肉などを混ぜて作ったもの。手間がかかる。かつて黒人が奴隷として連れてこられた時代に、主人の残りの、もつ肉などを豆と混ぜて炊いたのが始まりと言われる。彼らの主食もアフリカから持ってきたキャッサバであった。今でもキャッサバは多くの料理に使われる。
サルバドールの中心部、ペイリーニョ広場にて。ここには教会が365個あると言われている。ここが奴隷貿易商のあった場所。右手の店は料理学校兼レストラン、伝統料理を出す。入学したかったのだが、今は半年コースしかやってなくて断念。 バイーアの代表的な料理、「モケカ」、デンデ椰子の油で炒めたものにココナッツクリームを混ぜる。写真はモケカ・ヂ・ペーシェ(魚のココナッツクリーム)。タイ料理に似ている。デンデ油は腹持ちがよく、ずしっとくる。 |
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カポエラ、サルバドールの何処ででもやっている。格闘というよりも踊り。そしてアイデンティティー表現の一手段。カポエラの学校も多し。 右、ココナッツ売り。一個30円くらい、冷たくほんのり甘い。水より安くて栄養が豊富。軍隊でサバイバルの時にはココナッツにチューブを通して点滴に使うとか。私も熱帯病にかかったときに毎日飲んでいた。また椰子の中身は砂糖菓子に、オイルは料理に、殻は楽器や食器、工芸品にと無駄な所が無い。利用の仕方を知っている。 |
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左、劇場でのカントンブレ、オリシャ(神々)が出場し踊る。パーカッションの音がすばらしい。民間で行われている踊りではトランス状態になる者も分かる気がする。 リオのコパカパーナの海岸で見つけたタピオカのだんごとココナッツ砂糖菓子売り。伝統的な白い衣装を着ている。売り子を単にバイアーナと呼ぶ。人種差別の無い国と言われているが、街の人には、黒人バイアーナと言うと、労働者階級で都市に働きにあふれているという差別的な認識がある。 (下の記事参照) |
アルゼンチンやパラグアイでは焼肉のことをアサードと言う。ブラジルではチュラスコと言い。定員が大きな串に刺して持ってきたものを客が好きな部分をその場で皿の上に切ってもらい食べるというスタイルである。最近東京にも何件かできてきたのですが、日本人にとっては慣れないものなので最初に戸惑う、食べ方に少しコツがあるので伝えたいと思います。
おおきな串に刺して定員が次々に持ってくる。自分の皿がいっぱいだろうとおかまいなし。「降参するまで食べさせるぞ」と言わんばかり。次々に受け取っていくと食べるスピードが追いつけづ肉が冷えてしまう。いらないときは「NO」とはっきり言うこと。日本人の癖でせっかく持ってきてくれたのだからと「SI」とか「Gracias」と言ってしまう。 肉の部分を知ること。美味しい部分は数種類。また肉でも柔らかい部分、焼きすぎた部分、脂身ばかりの部分があるので、よく観察し、欲しい部分を指で指して切ってもらう。 写真右はクピン、ゼブ牛のこぶの部分、脂がのっていて柔らかい。ランプ肉ピカーニャもお勧め。 |
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チュラスコ店にはだいたいサラダバーがついている。各種の料理のオードブルがある最近寿司や刺身を置く店も増えた。最近ポルキロ店(注1)でも出される。要注意はフリーだからと言って盛りすぎると肉が食べられなくなるので注意。サラダやピクルスなど、肉をさっぱり食べるための口安めぐらいしか取ってはいけない。 ブラジルの店のおにいちゃんはたいがい陽気で親切だ。右はcostinha骨付きばら肉。 ブラジルは肉が安い。食べ放題でも5$くらいである。胃腸薬必須。 |
注1、POR KIRO つまりキログラムで食べ物を計って食べるビュフェスタイル。ブラジルでは非常にポピュラー。だいたい肉、サラダ、米やフェイジョアーダなど20種類くらいはある。好きなものを盛り付けて会計で重さを量り支払う。なぜ、肉と寿司、さしみが同じ値段なのかは分からない。刺身と言っても切っただけ、だれが握っているのかわからない寿司も食べる気にならない。それらは衛生状態や新鮮さ、技術が集まってできる料理だから。ポルキロのコツは、中心にご飯をおいて回りにおかずを置いて料理が混ざらないようにすること、何種類もあるからといって、乗せすぎると駄目。
読み物 ブラジル移民社会、異文化社会
ブラジル北東部のサルバドールという町に着きました。ここはアフリカに最も近いと言われる街です。というのもかつて奴隷貿易の中心地として栄え、多くの黒人が西アフリカから連れてこられたからです。現在、その子孫がアフリカの音楽や宗教、格闘舞踊カポエラなどの文化をこの地で開花させました。サンバもアフリカのリズムから生まれました。ここではいつもどこかで音楽が流れています。
ここブラジルでは2月末〜3月上旬にカーニバルが行われました。ブラジル人は一年間この日のためにエネルギーを溜めると言われるほど、盛り上がります。そしてその週は人々はサンバのリズムに合わせ毎晩路上で踊りあかします。リオのカーニバルが世界的に有名ですが、観光化して、ショーのようになってきていると言われます。片や、サルバドールで開かれるカーニバルは地元の住民と共に、演奏者に加わりながら踊り歩くことができます。他、各地で独特のカーニバルが催されます。
ここのカーニバルでは日本人のバンドも出場しました。日本人旅行者達も駆けつけて、30人ほどのグループで太鼓に合わせ踊り歩いていると、まさにブラジル版阿波踊りのようでした。ここでは日本は人気があります。あちこちで漢字入りのシャツやタトゥーを見ます。日本語を習っている人も多く、寿司などの日本料理も今や誰でも知っています。というのもここでは多くの日系人が活躍してきたからです。1908年、第一回791人を乗せた笠戸丸がサントス港に入港、その後、20万人の移民が渡りました。大豆や野菜など、多くの農業技術をブラジルに伝えたこともあり、ブラジルでは、日本人=まじめで勤勉というイメージと、日本人やその製品に対する信頼が作られました。
現在では人口130万人、100人に一人は日系人という大きな日系社会が作られました。
ブラジルではこのように、先住民、黒人、移住してきた白人、アジア人など多くの人種が交じり合って社会と文化を作っている国です、人種差別ということも殆どありません。全てがミックスされたおもちゃ箱のような面白い国、それがブラジルです。
読み物2 サルバドール黒人文化の開花
ここサルバドールはアフリカに最も近い街と言われている。人々の大部分が黒人で町のあちこちからアフロ音楽が聞こえ、広場では格闘舞踊カポエラを踊っている。
ここの街は16世紀中期から18世紀中期までサトウキビ・プランテーションの黒人奴隷貿易の中心地であった。コロニアル調の街が立てられ、贅をつくした教会が365もあると言われる。奴隷として連れてこられた黒人は、彼らの音楽や宗教を禁止されたが、密かに守り続けた。例えば、カポエラは、奴隷が領主に気づかれないように、弓矢を利用したビリンバウという楽器などを使って、踊っているように見せながら戦う方法を学ぶ舞踊であった。思うに彼らの黒人としてのアイデンティティーを保つ役割の方が大きかったのではないか。なぜなら空手などの格闘技と違い、カポエラは相手を倒すことよりも、相手と強調させながら踊り綺麗な技を見せることに重点を置く平和的な舞踊だからだ。日本でも日系ブラジル人のコミュニティーなどで踊られているらしい。
サッカー大国で知られるブラジルだが、ブラジルの選手はサンバを踊るようにボールを蹴る。かつて白人中心のサッカー会で、不利な黒人選手達はカポエラのジンガというリズムを使って相手にフェイントをかけて有利にプレーした。ちなみにサンバも黒人音楽から生まれ、それが近年になってボサノバや様々なブラジル音楽を生み出した。
宗教においては西アフリカのヨルーバ宗教がブラジルの北東部を中心にカントンブレとして伝わり守られてきた。最高神オルンをオリシャ(神々)を通じて崇拝する。ここでキリスト教と同化させて隠れて信仰した。たとえば最高位オシャラはキリスト、海の女神イエマンジェはマリア、他の神々にはキリスト教の聖人の名前が与えられた。マヤ民族がマヤ信仰を守った方法と同じだ。日本の神道が七福神を生み出し仏教を同化させたのにも似ている。多神教は一神教の宗教のように他の神や信仰を認めない、といった狭い考えを持ってないからいい。ブラジルには16の神々が伝わったが、元の西アフリカの"ヨルーバ"宗教では200の神々がいるらしい。ちなみに前回お伝えしたキューバのサンテリアが信仰していた"ジョルーバ"も神の名前や儀式の方法は変わっても起源は同じだ。あんなに離れた、国交も無い、共産主義と資本主義国家、言葉も違う2つの国で同じ起源の宗教が何世紀も裏で信仰されて保たれてきたのは驚かされる。
これらの宗教や音楽、踊りが、何世紀も沈黙を続け、現代になってやっとアフロ・ブラジル文化として開花したのだ。力では人々の文化やを抑えられなかったのだ。
蛇足までに、ブラジルの最初の住人は300万人のインディオ達であった。1988年の憲法改善でやっと伝統の保護政策が施行された。それまでは同化政策と迫害が続いてきた。彼らの大部分が住むアマゾンには材木、鉱物など多くの資源があったからだ。現在確認されている先住民(インディオ)は35万人215部族、この他に60の文明に接触のない先住民がいると推定されている。毎年新しい部族が発見されているらしい。文明との接触によって急な変化に対応できずに自殺する人々や新たな病気で絶滅する部族もいる。彼らにとって、発見はいい迷惑かもしれない。