どりあん共同通信連載記事]
2000年1月訓練所での講座
ドリアンの皆様お久しぶりです。私は前号のドリアン通信で伝えられた様に協力隊に参加すべく
広島を離れ極寒の地、真冬の長野(駒ヶ根市トレーニングセンターKTC)で訓練中です。今後ここから、そして中米グアテマラからできるかぎりドリアン通信に投稿しようと思います。内容も他紙には無い協力隊の裏話(愚痴話になるかも)ばかりレポートしようと思います。ちなみに廿日市国際交流協会誌blossomやひょうたん島通信の順でソフトタッチに同じような内容を書いているので比べてみると面白いかもしれません。
ところでシライシさんは東京の広尾訓練所にいるはずです。なぜ殆どの派遣先途上国が南半球、熱帯地域にあるのにこんな所で訓練しているんだろうか。シベリア抑留じゃあるまいし。
KTCの中は暖房が効いて3食うまい飯付き(多国籍料理)でジムもあり設備はいいのですが外(下界)にあまり出られず毎日スペイン語の勉強ばかりで正に缶詰状態です。ですから土曜の夜は皆、ストレス発散に街に繰り出して狂ったように飲み騒ぎます、先週も壁に穴が2つあきトイレにゲロがあふれたりしました。隊員生活中肝臓を壊して派遣中止になる人も多いらしいのも実感します。
語学の教師は最高の講師陣を集めたとうたっています。たしかに講義はネーティブで生徒も6人少人数制なのですが内容やテストは所詮日本の単語、文法詰め込み式の域から出ていません(まあタダで習えるのだからあまり文句を言ってはいけないが)。海外で働き生活する事を考えるとたいしたレベルでは無いのですが多くの人が苦しんでいます。協力隊でもこれほどの語学レベルなのですから日本人の外国語嫌いは深刻ですね。実際現地に行ってしまった方が数倍早いと思えます。僕はそれで数カ国語身につけてきました。
ここの生活で楽しいのは各大学や国際機関や協力隊のOBが訪れ話をしてくれる講座や、各自が開く自主講座です。海外経験が豊富であったり、各専門分野に強い人達が集まるのですから面白い話しが聞けます。環境、天気予報、地図を使って散策、水の講座etc。僕も先日「海外で役立つ日本料理講座」を開きました。また一般日本社会では変人とかアクの強いと言われるよう(ドリアン的!?)な人達を(僕も含む)200人も集めてさらに濃縮させ海外に排出するのだから日本政府も大胆な事をする。もし任地に向かう協力隊員の乗ったヒコーキが落ちると日本にとって貴重な人材の損失になるのかアクの少ないクリーンな社会になるのかとふと思った(冗談です)。でも協力隊合格者と言えども聞いていたほど特殊な人は少なくそこらの普通の若者と変わらない人も多いです。技術や語学や海外経験からしてもそう見えます。日本の大学新卒で専門の実践経験も無いし海外に1度も行った事の無い人もいるのが現状です。でも最も必要なのは人間性やボランティア(自発)精神だけど。
ここの生活は楽しくて知識も語学もUPするのですがKTCに縛物理的、精神的に縛られ(時間、規則厳守なんて途上国では逆に害になる事も)、閉じこもりがちで外への活動(地域活動やNGO活動やドリアンの参加など)ができないので一人での行動力や自発性や視野が狭まります。まだ海外で働き、アジア諸国を回っていたときの方がそういう「一人、途上国で生きていく力」はあったかもしれない。
写真:スペイ語授業風景、宿泊棟、野外訓練とり解体、
2000年5月、トドスサントス事件
日本でも報じられた様に4月29日ガテマラのウエウエテナンゴで日本人観光客の乗ったバスが現地住民500人に襲われて負傷者多数、現地ドライバーと日本人が一人死亡するという事件がありました。原因はカルト集団による子供の生贄の噂(子供の誘拐や売買事件はある)が広まっていた所に来た観光客が子供の写真を写したのを売り子が誘拐犯と勘違いして叫んだからとか。ですが私が事件後にその場に居合わせ非難してきた日本人の方に聞いた話ではその時は写真も撮っていなかったし誰も叫んでいなかったとか。襲った住民も血気盛んな若者が10名前後で後の人は見ていただけや助けてくれた人もいたとか。
日本での報道ではステレオタイプてきな先住民族=野蛮な人のいる未開で危険な国をイメージさせるものであったのが残念です。事件の起きた所も「秘境」なんかではなく70年代から旅行者が入り写真や観光のパンフでよく紹介される田舎の村の市場でした。本当に不運が重なった事件としか言い様がありません。やはり36年に渡る内戦、軍による虐殺がこの国の人々に残した心の傷は大きな物で、自衛のためとはいえリンチ事件はよくあります。武器も沢山残っています。ですが通常、首都を除いて地方の街、村はのんびりしていて治安もそれほど悪くは無いです。私が語学訓練(そんなたいそうなものでは無いですが)を受けていたアンティグアという街もバーやディスコに夜歩きでる安全な街でした。皆さん中米旅行の際には安心(少々注意)してガテマラに御越しください。ここでは沢山の旅行店、バッパーに語学学校やホームステイがあります(安い、安全、何でもある)。中南米旅行者の出発点にもなります。沈没者も多し(!?)。くわしくは広島の方が書かれた「ガテマラゆらゆら滞在記」を読んで下さい。
さて私の方ですが実は只今アンティグアに再び戻って療養中なのです。先週楽しい語学訓練が終わり任地で仕事が始まるかと思いきや、プールで滑って脱臼をしてしまい1週間入院してしまいました。(羽目を外しすぎて間接まで外してしまった)。事故当時は田舎の病院と医者をたらい回しに合い。結局首都に4時間かけて帰ってきて修復できたのが半日後。本当にここの医者は信用できません。変な手術(実験!)をされてしまった人もいます。近くに医療隊員がいたのでよかったものの、個人旅行で来て事故に会っていたらと思うとぞっとします。入院したのは協力隊員御用達の大統領も来るいい病院でした。個室でTV付き看護婦さんが山のようにいた。病院食は最初なぜか流動食、次にガテマラ料理、味が薄かったり甘すぎたりとバランス悪し。そもそもこの国には栄養士はいないし栄養観念も少ない。1週間が限界でした。昨日退院と同時に希望どおりまたここのホームステイフャミリー宅に戻ってきました。1ヶ月もあれば普通に歩ける(踊れる?!)ようになるそうです。まあ語学訓練中にさぼって踊ってばかりいたので今ゆっくりスペイン語の勉強をしています。隊員活動は2年もあるしゆっくりやろうと思います。来月には仕事(隊員活動)の事が書けると思います。いや書きます。
2000年7月任地での仕事
前回お伝えしたとおり語学訓練終了後、怪我をして1ヶ月休養。また語学学校(実費)に松葉杖で通ったのがいい勉強期間にはなりました。そして復活後7月にここグアテマラの地方都市コバンに着任しました。
協力隊員が最初に途上国に赴任すると職場では仕事が無かったとか、言葉も文化も馴染めない(個人的な問題もありますが)、職場の同僚がやる気が無いなどの問題。また家は電話どころか電気も水道も無く飯はまずく体も壊すなどの苦労話がよく聞かれます。僕もそういうものだと思って腹をくくっていました。そしてここの職業訓練庁に赴任してみると大歓迎状態、パソコンとプリンターと電話付き(ネットにつなぎ放題)のオフィスが用意されており、隣の秘書室から毎日コーヒーが運ばれ、コピーもやってもらえ、同僚達もやる気があり協力的。最初の月からテキストの作成と講座の準備で大忙し、「仕事が無い」なんて言葉はまちがっても言えなくなりました。普通隊員の仕事は1年の間は下見、2年目から本格的に始め出すといわれます。悪い意味では仕事が軌道に乗り始めたころに帰ってしまい、後任がまた1から繰り返すという話も聞かれます。私もそう感じます。現地に慣れてから仕事を始めようなんて考えていたらあっという間に2年はたってしまします。海外語学留学した人で、慣れてからネーティブと話そうと考えていた人が最後まで話せず帰国したのに、片言でもなんとか話そうとした貧乏旅行者が友人も多く出来て話せるようになったなんていう話ともどこか似ていますね。何か言葉や習慣を越えたところに大切なものがあるように感じます。
生活の方ですが下宿の人達も親切で美味しい料理、掃除、洗濯まで数人のお手伝いさんがやってくれます。こちらでは1軒に数人いることも珍しくありません、それが貧しい家庭を救う習慣でもあるようです。日本のかつてのでっち奉公ですね。近くにはバーやディスコ、映画館(1回約130円)もあり、ひょっとして日本よりいい暮らしではないかと思います。もちろんここまで恵まれた環境で働ける隊員は希ですが。この環境を利用して仕事に趣味にと色々活動しています。
私の仕事はここの職業訓練庁で食品加工を教え広める事です。週1回で食品加工講座を開いています。地元の農園での生活向上を目的とした2つのNGOの村落開発普及員が生徒として来ます。生徒といっても殆どが子持ちのおばちゃん達ですが。ジャム造りから始まり、酢漬け、燻製、パンまで何でもやってもう10回を数えます。糠漬けやうどんなどは何処まで受け入れられるかは判りませんが、とりあえず様々な加工法を紹介し彼女達が農村に入りそこに合った無理の無い物を選んで広めてくれる事を願っています。また竹の子の料理の仕方を教えてほしいとか(ここでは食べる習慣が無く、ゴミでしかない)、ピーナッツバターを製品化したいのでアドバイスがほしいとか、コーヒーのお菓子が作りたいけど何か開発してほしいとかいろんな要望が来ます。というのもここの国には食品加工科どころかまともな家庭科の授業すら無いのです。ですから農産物を工夫して何かを造る事、衛生観念、栄養観念などがあまりありません。ですから総合的な食と生活に関する指導を心がけています。
副業としてホテルやレストランに出向いて日本料理(天ぷら、鉄板焼き、寿司)などを紹介すると同時に調理器具の管理や衛生講座、ワインのサービスの仕方なども教えにいっています。来年からはアジア料理講座を開講してほしいと言われています。こうなったら殆ど料理隊員なのですが、、、。
このように仕事、生活ともに順調に半年が過ぎました。あと1年半からが長いと言われるように活動が濃くなるほど苦労も増えると思いますが、引き続き楽しくやっていこうと思います。
2000年12月クリスマス、市場
ここグアテマラにもクリスマスがやってきた。貧しくてクリスマスどころではない人達もいれば、ひたすらクリスマス商戦に呼応してデパートに繰り出す人達もいる。プレゼントに携帯電話やプレイステーションなんかも買われる。村では一日2$の稼ぎのお父さんがいれば、首都では一杯4$もするカクテルを水の様に飲んでいい車で遊び呆けている若者もいる。ここは途上国ではなく所得、経済格差途上国である。私にも広島から"どりあん通信"というプレゼントが贈られてきた。その中のアジアの市場、混沌についての記事に同感したのでちょっとその方向で話をしてみたい。
職業柄もあり今までひたすらアジアの市場を回ってきた。内戦で疲弊したカンボジアでも市場には活気があった。シンガポールのような人工都市の中心にも華僑達が中国そのままの地下市場を作って豚や蛙などを売っていた。ここは年々区画整理がされて面白味が無くなっているのは否めないが、日本のスーパーマーケットに比べたらまだ面白味がある。便利さを追求した終着点はコンビニだ。なぜアジアの市場的な乱雑さの中に安らぎを感じるのだろう。それはそこに生活、人間臭さがあるからではないだろうか?食は人間の生命維持活動の最も大切な部分である。人間の基本活動といっていい。それが朝の市場から始まる。さらに衣服、生活用品が集まってくる。そして人が集まってくる。そして人間臭い混沌が産まれる。
ここグアテマラも混沌がよく似合う。アジアの市場ほどの喧騒は無いにしても、同じくそこには人々の生活があふれている。出勤途中に今日の講座用の食材を下見する。市場には朝一の野菜がトラックで運ばれ山積みに置かれ、七面鳥(売り物)がそこらを歩きまわり、売店のおばちゃんの子供は通路に置かれた(いつもジャマ)ゆりかごの中で心地よく眠っている。子供達は半分遊び、働きながらそこらを走り回っている。私の趣味で教えている柔道教室も市場の中にあるためかそういったガキンチョがよく来る。まず畳に上がる時は足を洗わせる。やつらにはいい遊び場だ。市場で会うと「師匠!」と声を掛けてくる、なかなかかわいいがやつらは練習をよくさぼる。ガテマラの市場で目を楽しませるのが民族衣装のウイピル(上着)やコルテ(スカート)に始まるカラフルな布地模様であろう。23の言語族がここには暮す。同じ言語族でも村が変わるとウイピルの色が青から赤になり幾何学模様になったりする。いったい全部で何部族いることやら。識字率も高くは無いのでアンケートや人口調査も上手くできない。それを16世紀スペイン侵略時から言語統制、宗教統制が行われてきた。アメリカンインディアン、オーストラリアンアボリジニー、タイ山岳民族、世界の先住民族に起こってきた文化、アイデンティティー破壊という悲劇と同じことがここでもなされた。しかしここの人々は従ったかのように見せかけて裏で自分達の文化を守ってきた。今でもガテマラは国民の大半がマヤ系民族という圧倒的な数だ。観光客が来たら普段着ない民族衣装に着替えてダンスして出迎えるなんていうチャチなことはしない。地方では市場の売り手も客も皆民族衣装を普通に着ているのだ。最初は新鮮だったけど最近は見飽きたくらいだ。あと写真で見ると綺麗だが近寄ると結構臭かったりノミがいることがある、なぜなら人によっては服を1、2着しか持っておらず寝るときも畑仕事も同じ服でするからだ。長距離乗合バスでとなりに100kgはあるごっついおばちゃん(マヤ系の女性は産後丸くなる!?)に座られたときは地獄だった。これは偏見じゃなくて事実です。
今の政府も表向きは先住民族保護を唱えつつも、言語、民族統一し経済成長、米国に一歩でも近づきたいのが本音である。人々の心の中にもかつて日本が向かったようにアメリカの真似をして所得を上げる事が幸福に近づくことだという考えがある。途上国一般的にもこの考えがあるのではないか?それでは世界が面白くなくなるじゃないか。各国の伝統、多様性があるこそ面白いのであって、画一化教育の学生の様に個性より偏差値で計られた優等国ばかりが賞賛される社会、世界にはなってほしくない。21世紀は多様な文化の交わりの中に安心、調和が存在する"途上国の市場的"な世界になってほしい。アジアの混沌から口切したのので最後までまとまらなかったような気もするが、それこそよしとしよう。では今日も市場に出かける時間なのでここまで。アディオス
2000年3月 デヒタルかマノ(手)か?
ドリアン通信1,2月号も無事手元に届いた。2週間くらいで届いた。新体制後この国の郵便事情は飛躍的に改善されたといえども郵便物が紛失することはままある。あるときは日本から出した葉書が地球のあちこちの国を回りスタンプを押され、あて先に届くことなく日本に帰ってきたとか。60円世界一周旅行。また小包などは税関で開けられチェックされるとき職員に盗まれることが多い。特に日本からの高価な物はもちろん。日本のポルノ本などは税関に好まれるらしく(笑)紛失度が高いとか。こっちから日本に土産などを送るときも「無事届きますように」と祈りつつ梱包しなくてはならない。こんな状態だから日本から手紙などがちゃんと届いたときは嬉しいものだ。
前号でドリアン通信HP、メールマガジン化の提案記事を亀さんが書かれていた。海外でどりあんを読んでいるものとしてもやはり冊子がいい。いくら途上国に住んでいるとはいえ電話線さえあればインターネットにアクセスし日本語で各種HPを見ることができる。世界情勢記事などもメールマガジンで毎日送られてくる。このまえ試しに日本とチャットをしてみたがこっちが朝の時間、日本は夜だったためアクセスする人が一部の夜更かしの人しかいずに断念。日本の友人からのメールもチェックできるし、どりあん通信の原稿もリアルタイムで送る事ができる。しかし所詮メール、デジタルである。手で書いた温かさが出ない。前号の中本みゆきさんの記事なんてそうであろう。彼女はFAXを使って絵やイラスト手紙を書くのが昔から上手かった。メールも最近始めたらしいが、手紙のようないきいきしたものは出ない。ちなみに僕が手書きの原稿を書くと誰も読めないのであえて書かない。ワープロさまさま。最近スペイン語ばかりで、日本語がさらに後退していくのを感じる。漢字なんてサイン以外まず手で書く機会が無いのでもう書けないかもしれない。打って変換することはかろうじてできるが、、、。
いつも海外から日本に帰るとその騒がしさに驚く。ここらの国も街角で大音量のラテン音楽を鳴らし車のクラクションなんかもうるさい。しかし日本の場合は物理的な喧騒ではなく、情報の氾濫のうるささがある。インターネットにしろ、その渦の中から本当に必要な情報のみを選び出し使いこなせる能力が身につく前に溺れ死にそうになる。僕も情報のウェブをサーフィンしているのか沖に流されているのか分らなくなる。HPを作ればたしかに人の目につく機会は増えるが、作っている人も見ている人も何処まで真剣か解らない。HPにはつまらないものや非社会的なものも沢山あるし。
日本では各種マニュアル本(パソコンソフトを使うのに分厚い本を別に買い勉強しなくてはならないのは滑稽?!)、各種週刊雑誌、出版業界が発展して各種の本が容易に手に入り誰もがそれにより勉強する機会を得られる。すばらしい事だ。中米ではまずない。僕ら外国人ですら高くて本一冊買うのに決断がいる。またスペイン語の専門書なんてほとんど出版されていない。田舎では一日3$で暮す人もいて、インターネットで情報どころではない。アクセスするなんていうのも一部の裕福階層であり、それらの人はそれによりさらに優位な機会を得られる。いわゆる絵に描いたようなデジタルデバイトだ。いくらIT革命だのなんだのいっても世界の圧倒的多数の人がパソコンどころか毎日の糧にすら困っている事は変わりない。革命するなら本当に大切な情報、ものを選び抜く教育、足すより引いて質素であるが豊かな生活をおくれるようにする方が為になるのでは?先進国日本が発展段階で忘れてきたものがまだまだ途上国にはありそうだ。援助する一方で学ばなければいけないことも沢山あるのではないだろうか?僕らは途上国にて知らずうちに逆にそれを教わっている気がする。
さて次号のどりあん通信も無事手元に届くことを祈りつつ。この日本語の下手な原稿が切手代替わりくらいになればいいのですが。
2000年6月 医療協力は世界を救う、、、か?
最近ある若い農業隊員が真面目な顔でつぶやいていた。「俺は日本に帰ったら医学を学んで医者になろうと思う。そして今度は他の国に行って人を助けもっと役に立とうと思う、、、。」
協力隊に参加が決ったとき広島の某国際交流誌にも東欧のある国の日本語教師隊員が同じような事を書いていた。「私は2年間、日本語を教えてきたけど自分の限界を感じた。日本語を教えてもこの国の発展には役に立っていない。帰って看護婦になろう」と、、、。
何か自分の技術を生かして途上国の発展に協力したい。人の役に立ちたい。そう思い多くの若者が協力隊を受ける。そして現地で大半の人が挫折し、自分の力不足、来るとき描いていたイメージとのギャップを感じます(まあJICAの作っているいかにも健全な青年の奉仕活動をアピールする様なポスターや宣伝方法にも問題がありますが)。その時に行き着く答えが病人を治すという直ぐに人の役に立てる"医療"なのでしょう。しかしそこにもイメージの先行がありそれに陥ると同じ失敗を繰り返します。
医療NGOの内戦地や難民キャンプで活動経験のある医療関係者達はこう言います「医者1人の限界を感じた」「私は何もできなかった(もちろん謙遜もあると思いますが)」。なぜなのでしょう。たとえ内戦地で兵士を治療してもすぐその兵士が敵国の人を傷つけ、再び自分も傷ついて戻ってきます。また難民キャンプでは毎日病人が倒れていくのに簡単な医薬品すら届かなく、悔しい思いばかりが残ったそうです。協力隊の月刊誌"クロスロード"6、7月号には看護婦(士)隊員の特集がありました。そこでも同じく、貧困とシステムの悪さから、たらい回しにあい亡くなる患者、お金が無いため医療も施されないまま自宅で死を待った少女、猛威を奮うHIV、自責する隊員の話などが生々しく書かれていた。
私の父も医者でかつてカンボジアに医療協力に行っていたそうです。私にとっても医者という仕事は人の命を預かる大切な職業だと思います。しかし医療のみでは途上国、世界を救えない事は上記したとおりです。逆にどんな技術でも貢献ができるのです。また、それは国内でも国外でもいいのです。大切なのはその意志(ボランタリー)とその方法でしょうか。内戦のボスニアでコンサートを開いたり、途上国で子供に絵を教えたりという文化活動をした人達もいます。私も震災後半の神戸で救援物資のクレパスと画用紙を配ったり、節分の豆を鬼の面を着けて(ノーヘルで)バイクを小学校まで走らせ、小学生にマメを当てられに行ったのが懐かしく思われます。今の私の活動は食品加工です。一見、料理教室の延長くらいしか見えませんが、食を担うという事はその国の人の生活、健康を担う事です。即効果は出ないにしてもゆっくり影響の出てくるものです。農業も同じ事です。それに携わる者はそれを広い目で見る事、自負する事が大切なのではないでしょうか。
西洋医学は化学薬品を使い、悪い部分を除去する即効性を求める治療医学。東洋医学は医食同源、日常の食べ物を伝統的方法でバランス良く食べる事により健康を保つ予防医学。どちらがいいとは言えません、どちらも大切なものです。(開発援助というものも似ていませんか?)。私は"食"に携われる私の専門職が非常に好きですし、誇りに思います。医者の父と同じく途上国などで病に苦しむ人の役に立ちたいという考えは同じだと思います。しかしそれを実行するのは私が医者に転向するという安易な方法ではなく"食"の分野から予防医学に近づく事だと思っています。食の分野の奥は深く世界中から学ばなければならない事は沢山ありそうです。まだまだしばらく放浪料理人の旅は続きそうです。
8月暴動、そしてテロ、
いつもの出勤通路には割られたガラスや机、廃材が散乱し、タイヤが焼かれた後が真っ黒に道路に染み付いていた。ここでは人をリンチしたあとに火をつける習慣がある。それを想像させられた。今回、死者が2名ほど出たらしい。いつも散歩している中央公園はすでに軍隊と警官に制圧されて、やや落ち着きを取り戻していた。まだ涙流弾の煙が残っているのか、少し目がいたい。公園前にある教育隊員の働くオフィスの扉は破られ、そして全ての窓ガラスと雨戸が割られていた。人は退避していたのでよかった。
またパソコン器機などの貴重なものがほとんど盗み出されていなかったのは奇跡的だった。軍隊の出動があと数分遅れていたらどうなっていたことだろうか。その日起こったのは、デモと呼ばれるような民主主義的な香のするものから暴動というキナ臭いものに変わっていた。この国にきて、久しぶりに大きな落胆をした。
ドリアン6月号で海外生活での危機管理の原稿を頼まれて書きましたが、まさか自分のすぐそばでそれを実行する時が来るとは思いませんでした。8月、ガテマラでは現在税率の増加に対する抗議デモがあちこちで起こりました。ここの国では特に金持ちほど脱税率が高く、低所得者への消費税率UPは苦しいものです。累進課税や相続税などのような国民がほぼ中産階級になる日本の税のシステムには改めて感心します。彼らがデモ行進をする意味は良く解ります。大半が暴力の無いデモを望んでいたようでした。
しかし、熱の入った群集とは恐ろしいものと改めて思いました。怒りのやり場、エネルギーの捌け口に困った一部の群集はそれを目的の無い破壊行為に遷す。まず公園の車やタクシーを壊し出し、廃材やタイヤにガソリンで火を付け、商店からビンを盗み道路にぶちまけた。店から商品を盗む者も、市場の屋台を壊し果物をぶちまける者もいた。彼らはTVに映ると「我々貧しい者はこうやって抗議するしかない」と行為を正当化していたが、壊している屋台、商品の所持者も彼らと同じ貧困者ということは気付いていないようだ。奇声をあげながら山刀や角材などを振り回し駆け回る暴徒、それを取り巻く野次馬と報道陣、襲われ逃げる警官達。軍隊出動そして涙流弾。旅行先の国ならまだしも、働いている街で起こったら人事では済みません。明日からの生活や仕事がどうなるのかやはり心配になりました。
大体暴徒のエネルギーは3時間ほどと言われています。そこで疲れたら彼らは家に帰る、そして次の日からはまた平和な何気ない街になる。今回もそうでした。怖いのがピーク時に居合わせようものなら、我々アジア人は「中国人がここの国に来て儲けるから俺達は貧乏なんだ」とか、なんくせをつけられてリンチされかねません。数年前アジアにあるインドネシアでさえも昨年華僑がかなり襲われました。こちらの田舎ではチーノ(中国人)は犬も子供もさらって食べると本気で思っています。頭に血の登った現地人に「俺は日本人だ」とか「観光客だ」とか言っても無理でしょう。丁度1年前にガテマラで日本人観光客らが子供をさらう悪魔信仰団と間違えられ教われ1人撲殺される事件もありました。
まあ、とにかく群集の集まっている所でやばい空気の流れている所には近寄らない。そして現地の家族や友人の「危ない」という真顔の忠告はどんな筋の最新情報よりも確かという事です。今回も家族に下宿の家族に扉を開けたその時「出るな!」と言われて助かりました。逆を言うと、どんなに日本大使館からの危険勧告が出ていたり、ガイドブックに危険地帯と書かれたり、内戦をしているような国でも、現地人が安全と言う場所はあるものです。だってそこには毎日暮している人々が必ずいるのですから。
昨日アメリカでテロが多発し、世界を震撼させました。会う確立は少ないといえどもテロにも気をつけて生活をしています。特に今回はアメリカ大使館、国連関係のビルや施設に近寄らない指示もかなり前から来ていました。選挙前などには王宮や人の集まる場所は避けたいものです。テロなどには普段関係の無い生活を送れる日本ですが、アメリカが標的になる以上、日本も対象に入ってくることも充分ありえます。
まあ、とにかく危機管理の大原則は「自分の身は自分で守れ」それにつきます。
写真:道に散乱する割られたビン、焼けた政府ビルと軍隊出動、破られガソリンで焼かれた扉。
地球村11月号
今回紹介するのは最近ネットで回ってきたちょっといいなと思った文章です。作者は不明です。
少し自分流に書き直しています。自分がこの村に住んでいると想像しながら読んでみてください。
>>もし 現在の人類統計比率をきちんと盛り込んで、全世界を
> >> 人口100人の村に縮小するとしたらどうなるでしょう。
> >> その村には・・・・
> >> 57人のアジア人
> >> 21人のヨーロッパ人
> >> 14人の南北アメリカ人
> >> 8人のアフリカ人がいます。
> >> 52人が女性で
> >> 48人が男性です。
> >> 70人が有色人種で
> >> 30人が白人
> >> 70人がキリスト教徒以外の人たちで
> >> 30人がキリスト教
> >> 89人が異性愛者で
> >> 11人が同性愛者
> >> 6人が村の富の59パーセントを所有し、その6人ともがアメリカ国籍
> >> 80人は標準以下の居住環境に住み
> >> 70人が文字が読めない
> >> 村人全員が生きるのに十分なだけの食料があるはずなのに、
>>> 一部は食べ物を粗末にし、50人は栄養失調で苦しんでいる。
> >> ひとりが瀕死の状態にあり、ひとりは今、生まれようとしている
> >> 一人、そう、たったひとりは大学の教育を受け
> >> そしてたったひとりがコンピューターを所有している
> >>
> >> もしこのように縮小された全体図からわたしたちの世界を見るなら、
> >> 相手をあるがままに受け容れること、
> >> 自分と違う人を理解すること
> >> そして そういう事実を知るための教育が
いかに必要かは火を見るより明らかです。
> >> また、次のような視点からもじっくり考えてみましょう。
> >> もしあなたが今朝、目覚めた時、病気でなく健康だと感じること
が出来たなら・・・
> >> あなたは 今週生き残ることのできないであろう100万人の人たちより恵まれています
> >> もしあなたが戦いの危険や、投獄される孤独や、獄門の苦悩、
> >> あるいは餓えの悲痛を一度も経験したことがないのなら・・・・・
> >> 世界の5億人の人たちより恵まれています
> >> もし冷蔵庫に食料があり、着る服があり、頭の上には屋根があり、
寝る場所があるなら・・・・
> >> あなたはこの世界の75パーセントの人々より裕福です
> >> もし銀行に預金があり、お財布にもお金があり、さらに家のどこかに小銭の入ったいれ物があるなら・・・・・
> >> あなたはこの世界の中で最も裕福な上位8パーセントのうち1人です
> >> もしあなたの両親がともに健在で、
> >> そして二人がまだ一緒なら・・・・・
> >> それはとても稀なことそしてそれ以上の幸せは無いでしょう。
もし自分がこの村に住んでいたら、良き隣人が飢餓で瀕死の状態にあるのを黙って見ていられるでしょうか。異教徒、イデオロギーが違うというだけで非難、攻撃する(殺す?)事ができるでしょうか。
異文化や異教徒、異人種に対する差別や誤解は顔が見えないという所から始まります。
こちら側から見ると彼らはかなり変わった生活をしているように見えるでしょう。逆にあちらから見るとこちらの世界はかなり特殊でしょう。
ここ途上国から私、日本人が見ても日本という場所はなんと異質な所、異質な人達が住んでいると感じます。
私たちの価値観や生活が普通と考える事は怖いことです。また自分達が絶対的な正義だと考える人達ほど怖いものはありません。
どのような歴史背景、社会背景があり、彼らもまた平和を欲する市民であり被害者であるという考えが硬直してしまい、正義に対する絶対悪という色眼鏡でしか見えなくなってしまうのです。それが戦争の始まりになるのでしょう。
恵まれない人、被害に遭っている人達と共感はできなくても想像はできるはずです。
ある国では物質的にも豊かで高度な教育と憲法と福祉制度の中で保護されているのに、自分は自由が無く不幸だとキレて犯罪を犯す青少年が増え、リストラに遭った大人たちの自殺率は増す一報です。
そんな国の話をここガテマラの路上の子供達に話しても理解してもらえないだろう。養育費が出せなく学校に行かせてもらえない。片親で家族を靴磨きで養っている。田舎では少女が14歳で結婚して家事と子育てに追われる。など話を聞けばきりがない。内戦時代の後遺症も大きい。
しかし彼らの顔は明るい。貧しいという悲壮感や将来の不安より今日を楽しみ生きる事に一生懸命なのだろうか。そしてヘスス(イエス=神)の加護の下、家族と共にいられる事に幸せを感じているのだろう。
豊かな国の人々で自分を不幸だ、運や機会が無い、家族が悪い、行政が悪いと愚痴を言っている人はこの国の路上の少年達の前でも同じことが言えるのでしょうか。
実際会ってみて感じたのは、彼らは非常に落ち着いて温かみの人達だということだった。彼女の方も多くのストレスを抱えた時だったと思うが、その片鱗すら見せずに笑顔が耐えなかった。多くの隊員がいくらかの緊張を感じていたようだがしばらくすると笑い声も飛び交うムードになっていた。私を含め多くの隊員の話を丁寧に聞いてくれた。帰られるときにふっと言われた一言が「昨年は真に残念でした(事故で無くなった隊員に)、今年は一人も無い事を願っています」だった。もう1年半前にもなる。そして先日ここの国にも愛子ちゃんという彼らの子供が生まれたという吉報が届いた。日本の祝いムードまではここまで伝わらないが、友人が出産したときのように少し嬉しい気持ちになった。
日本にいるときは決して愛国者というわけではありませんでした。学生時代は逆に反権力志向から日の丸、君が代、皇室、日本の社会すら批判していたのを思い出します。それが海外に住めば住むほど変わるのです。他の隊員や海外在住者も似たり寄ったりのようです。少なくとも他国、自国の国旗掲揚、国家斉唱をしている時にしゃべったり、立ち歩いたりする人は回りにいません。それは一種のルールであり礼儀なのです。今でも何かあると星条旗を掲げてムードを高めては他国を攻撃する国、多民族国家を無理にそれでまとめている大国、など複雑なナショナリズムがつきまとうのは否めません。日本でもかつてはアジア侵略の為の道具になりました。宗教も似ている気がします。それは本来もっと純粋なもの、愛国心というよりも愛郷心とう言葉が似合うものではないでしょうか。
たとえばある知り合いの海外移住者は畳の家で毎食日本食を食べ、会があるごとに着物をびしっと着ては琴を披露します。日本に居る人でここまでやっている人はどれくらいいるでしょうか。彼らは日本より日本的と言えます。海外で感じるのはやはり現地の人達が求めるのもそういった文化の部分であって、僕は国際派無国籍人と言って日本の文化の何も知らないような人はあまり相手にされません。現地の人達も同じように自分の国、民族の文化を大切にします。人はそういったアイデンティティー無しには生きられないものなのかもしれません。海外で一人になったとき現地の人と自分を相対的に見ることができて自分の中の日本に気づくのではないでしょうか。
国内にいるときは日本の教育、社会、政治は悪い。ヨーロッパの環境、社会はすばらしい。アメリカの自由と民主主義は進んでいるという情報を過信しがちではないでしょうか。実際は思った以上に世界は貧しく、差別、宗教、民族との衝突が絶えず、武器が氾濫しています。海外に出て相対的に日本を見るようになると、日本は福祉国家であり平和で教育も高く、国民は真面目で勤勉だと感じます。もちろん逆に日本人は働きすぎるとか資源を消費しすぎといった悪い部分も見えますが。
日本の中だけで世界は良い、ここは悪いとばかり言っているのは、なにか自分の家族は良くない自分は不幸な家に生まれた、他の家の方が幸せそうだと言っている反抗期の子供みたいではないですか。
海外で働いている、そして今後も暮らしていくであろうからこそ、私は日本人であり、愛国者であり、自国の文化を誇りに思うと胸を張って言いたい。それは偏ったナショナリズムに走るという意味ではなく何所の国の人とも対等に付き合うお互いの文化を認め合うという前提のような気がします。
今年から21世紀に入ったのに世界では相変わらず紛争が絶えず、攻撃と報復テロという憎しみの連鎖が耐えない。こういう年だったからこそ、年末の最後の喜ばしいニュースを一日本人として地球の裏側より祝福したいと思います。皆様も良い年を
コータの「協力隊日記inグアテマラ。」 協力隊聖人君主?ムダ論?
同協力隊員の職場に訪れたとき聞いた話。A隊員は某市の訪問団が職場訪問に来るの忘れていて、その日になって机の上に重ねて山になっていたOング ジャンプ急いで片付けたらしい。同職場のB隊員は机の前に並べて張っておいた水着ポスターを急いで剥がしたらしい。そして、訪問団が来た時にはいかにも忙しく仕事をしているという姿を見せたというのです。その笑い話を聞いて、そのままでよかったじゃないかと僕は言った。ちなみに彼らは普段仕事をしていないわけではなく、現場に出る仕事なのでオフィスワークはほとんどしないのである。記者がいい写真をほしいというのでやったことも無い仕事の写真が撮られ日本の新聞に出たという隊員もいた。今ごろ某市の国際交流協会とか国際協力促進会とかの会報には「現地でいきいきと働く青年達」という題で記事が載っているのでしょう。
たとえば協力隊機関紙のクロスロードという冊子にしても、以前は美談が多かった。近年になって苦労話や失敗談などもあえて掲載されるようになった。苦労談の方が現地の隊員には共感できる話が多いし、リアルに感じられるのに。いまだ日本にはボランティアはえらい、海外で苦労してくる青年達のような隊員聖人君主論みたいなものがあるようです。お国のために玉砕と言って日の丸を振っていた時代じゃないのだから、「送り出されたはいいけど現地に仕事が無かったのですぐに帰ってきました。」なんて簡単に言えたらもっといいのでは。帰るに帰れず、2年間がまんする、暇なのに仕事しているふりをする。なんて人を見ると、それこそ本人の時間と税金のムダ使いだといつも思う。
逆に大きく歪曲した批判もあります。一時期批判本なんかも流行りましたね。たしかに仕事の無い隊員、上手くいかない隊員もいます。しかし、批判本の様に一部の特殊な事例や自分の隊員時代の不満をまとめて、「協力隊員は仕事していない」と言うのは、「今の国立大学生は皆勉強しない」と言っているのと同じです。協力隊というのはマンパワーに頼ることが多く、その土地柄、職場、本人の技術や適応力、個性で大きく変わるのです。現地で働いていると援助がどうのJICA事務所がどうのなんて殆ど関係無いように思えてくるくらいです。
NGOからのODA批判もあります。たしかに日本のNGOは少ない財源の中、手探りでよくやっています(どりあんもそうですよね)。税金を湯水の様に使っているODAのやり方を見ると疑問に思うでしょう。日本の一般市民においてもNGO=草の根、市民の手で創られた健全で信用できる団体。ODA=大型援助、税金のムダという感覚があるようです。
しかし、こちら途上国では評価が逆のようでです。もちろん政府に対する信用はありません。ちなみに現在の政府不支持率92%、日本の小泉内閣と反対ですね。それでも政府系の援助団体はしっかりしているしいい人材もいる。逆にNGOは汚職の根源、仕事をしないという評価です。というのも、一時期協力した某欧州系のNGOにしてみれば、現地スタッフは自分のポジションを守っていれば欧州のNGOからいい給料がもらえるわけだから、仕事の宣伝や調査団にいい報告はするが自分達は何もしないというものであった。もっと悪いのは本部からチェックが入りにくい事をいいことに金を横領して刑事事件すれすれになった観光開発型NGOもありました。ある国では調べてみると名前だけのユーレイNGOが数百もあったとか。考えてもみてください、「毎月数$で家族共に苦しい暮らしている途上国で、何も知らない国からいきなり慈善金が来て、チェックもあまり厳しく無い、自分が現地開発の為に自由に使っていいと任された。」あなたはどうしますか?途上国の人々は貧しいけど心はキレイ、援助金の横領なんて、、、そんな日本的な善良観はここでは通じないのです。そのうちリーダーの家に新品の冷蔵庫やTVが届いたり、救援物資であった保存食が市場に出回ったりするのです。ちなみにハリケーンミッチーの時であろう日本からの援助"さば缶"は私の好物です。運良く見つけると必ず買います。一缶30円くらいです。ラベルには"援助物資、販売禁止とスペイン語"で書かれています。
NGOだろうがODAだろうがこっちから見ると結局は同じ人間がやっているのだから欲も出るし、間違いも起こる。途上国に先進国の合理性を求めるのも無理があります。なのに日本では間違いは許されない。税金を使っているのに現地で使われない機材を送ってしまった。仕事の無いので漫画読んでいる協力隊員がいるなんてとんでもない。慈善金や物資を現地で横流しされたNGOなんて信じられない。という風潮があるために隠してしまい、さらに悪循環になるのではないでしょうか?途上国的なちょっとした間違いや失敗があってもしょうがないという感覚。その失敗を許容できる周りの人達。そしてその反省を生かせる環境。があってもいいのではないでしょうか。援助する側、される側も同じ人間なのですから。
最終回 国際協力と文化交流
2年に渡って協力隊での体験記や、国際協力などについて本誌に連載してきました。私の任期もこの4月に終了し、グアテマラを離れることになりました。自分なりに、現場から途上国、国際援助の実態や協力隊、JICAや大使館の裏の話など色々な事を見て考える事ができました。
国際援助に疑問を持ち、自分の活動にも納得ができずに帰国する隊員もいます。援助や協力隊はいらないという極端な結論に達する人もいます。たしかに日本の援助する側にも、受け入れる途上国にも多くの問題がありますが、マイナス面ばかり強調してしまっても何も始まらないのです。
私の場合、現地で多くの事を教えて、多くの地域を回り、人々に出会い、多くの事を学ぶことができた協力隊の2年間は貴重な時間でした。体験した現地の習慣などはカウンターパンチのように帰国後じっくり効いてきそうです。技術援助を目的として行く我々ですが、結局一番大切なのは人間同士の付き合いであったと思います。人が現地の人と活動をする、考えを持ちこむという事は、文化や習慣を伝えていることなのです。同じく、我々は多くの文化を途上国から学んでいるのです。文化交流という言葉は、ただ日本の伝統芸能を披露する、という事だけを示すのではないのです。文化人類学では人が活動をする事自体が文化を生み出すと考えられているようです。
政府による機材や技術の援助もたしかに大切ですが、今後は文化や人々の交流にもっと力を入れなければならないのではないでしょうか。それらが無く、本当の顔が見えない間柄であるうちは、いくら日本政府が無償援助しようが、ラテン諸国では「チーノ(中国人)が機械をタダくれる」と言われてしまうのです。同じく、アジア諸国や中国にいくら資金援助しても反日感情は消えません。日本人にとっても、未だ中東やアフリカなどの途上国に対するマイナスイメージは消えていません。
日本で途上国への国際協力と言うと、貧しい人々へ先進国から物資を与えるというステレオタイプな考えがありませんか。NGO募金のポスターの飢えそうな子どもの写真などを見て途上国の人々=貧しい、文化や楽しみが少ない人々、かわいそうな人々と思っていませんか。失礼な話です。現地の人々は貧しくとも、もっと自尊心が高く、先進国よりも、ある意味人生を楽観的に豊かに過ごしているのです。グアテマラは経済危機も社会的不安も日本とは比べ物になりませんが、自殺率は低く、生活に不安を感じている人は少ないのです。保守的な国で安易に西洋化しなかった国だからこそ保ってきた伝統的な先住民の文化や習慣が残っています。ここから日本に逆輸出しなくてはならない文化や習慣は沢山あると思います。今の混沌とした日本、先進諸国は、途上国=遅れている、という観念を捨てて対等に良い所を出し合って学びあうという姿勢が必要なようです。
少なくとも税金で行かせてもらった協力隊員は、途上国で学んできた事を日本に逆輸入していく義務があると思います。私は帰国後には私自身の表現方法でこれらを行っていこうと思います。
長い間おつきあいしていただきありがとうございました。それでは広島でお会いしましょう。
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