ひょうたん島通信誌上連載「中米グアテマラだより」  

ODAと協力隊 2000年1月 

始めまして、今月より「ひょうたん島通信」に連載することとなった放浪料理人のコータです。一応、広島県人です。インドやネパールや東南アジアを周り食べ歩き、ある時はオーストラリアの5つ星ホテルのシェフ、ある時は飲み屋や餃子屋の助っ人料理人、長野でワイン作りや大島でくさや作りをしたりと年中放浪しています。来年からは2年間中米グアテマラに行ってくるので今後広島にひそかな中南米ブームを起こそうと計画中。
 
 グアテマラに遊びに行くのかって?いやいや協力隊(JOCV)食品加工隊員という一応仕事で行くのです。ボランティアなので無給で危なくて大変と思われていますがちょっと違います。たしかにvolunteerではありますがその意味するように「自主的な奉仕活動」が前提で、給料はさすがODAだけあって結構出ます(現地生活費や準備金は別)。ペルーなどの治安的危険度が高い所には派遣されません(隊員の交通事故死者は多いが)。保健や衛生も巡回診断や予防接種などがあります。お金の無いNGOの派遣や海外出稼ぎに比べればかなり高待遇ということが分かります(行きたくなりましたか?テストも簡単ですよ)。そうそうODAと言うと税金の無駄使いの代表として叩かれます。使わないダムや橋を作ったり高価な器機を送り埃が被っていたり失敗を挙げるときりがありません。途上国援助は考えの違い、急な政権や政策の交代、私利私欲に走る役人など難しい事ばかりです。しかし日本国内を見て下さい、税金の無駄使いや公共事業の失敗は全く無いでしょうか?そして軍事費は維持しても隣国を援助するODAは削減されています。
 また反対に協力隊員や海外ボランティアが美化されすぎるときもあります。日本の為に一般人には真似できない素晴らしい事をしているのでしょうか。奉仕活動は昔から日本で誰もが当然の様にやっていた事であり、道の掃除や老人介護や地域の防災活動、何でもいいと思うのですが。    

協力隊駒ヶ根訓練所での生活 2月

 マイナス10度。雪が残る田舎道を私達は早朝7時からマラソンをしていた。ここは広島でもなくグアテマラでもなく極寒、真冬の長野(駒ヶ根市トレーニングセンターKTC)であった。そうです私は今、青年海外協力隊の訓練中なのです。KTCの中は暖房が効いて3食うまい飯付きでジムもあり設備はいいのですが外(下界)にあまり出られず毎日スペイン語(人によっては英語やベンガル語、フランス語)の勉強ばかりで正に缶詰状態です。ですから土曜の夜は皆、ストレス発散に街に繰り出して狂ったように飲み騒ぎます。以前は送迎バスがあったのですが「気ちがいバス」と呼ばれ廃止されました。今は「気ちがいタクシー」になりました。語学の教師は最高の講師陣を集めたとうたっています。たしかに講義はネーティブで生徒も6人少人数制なのですが内容やテストは所詮日本の単語、文法詰め込み式の域から出ていません。また協力隊合格者といえども初めから流暢な人は一握りで殆どの人が壁にぶち当たっています。海外で働く事を考えるとたいしたレベルでは無いのですが、やはりここでも日本の学校教育は語学嫌いを作り出してきたと実感します。実際現地に行ってしまった方が数倍早いと思えます。僕はそれで数カ国語身につけてきました。
 
 ここの生活で楽しいのは各大学や国際機関や協力隊のOBが訪れ話をしてくれる講座や、各自が開く自主講座です。海外経験が豊富であったり、各専門分野に強い人達が集まるのですから面白い話しが聞けます。環境、天気予報、地図を使って散策、水確保講座etc、僕も先日「海外で役立つ日本料理講座」を開きました。また一般日本社会では変わったとかアクの強いと言われるような人達を(僕も含む)200人も集めてさらに濃縮させ海外に排出するのだから日本政府も大胆な事をする。まあ1番らしくない国家公務員ではあるが。
 
 まあここの生活は楽しくて知識も語学もUPするのですがKTCの規則ないで生活し、閉じこもりがちでその他の活動ができない(こうやってメールで下界と交信するくらい)ので視野や実践力や応用力が後退するような気がします。まだ海外で働き、アジア諸国を回っていたときの方がそういう「一人、途上国で生きていく力」はあったかもしれない。
 


訓練所での講座 3月

 最近はここ長野駒ヶ根市協力隊訓練所付近も暖かくなって春の訪れを感じ嬉しくなってきます。今年は日本を離れる前に桜がぎりぎり見れそうです(去年はオーストラリアで雪も桜も無かった)。でもやはり毎朝6時半のマラソンの時は道路が凍結し雪が積もります。
 訓練所での生活も半分が過ぎました。毎日温室のような館内に閉じ込められ、時間どおり3食をたらふく食べ、語学を詰め込み、ブロイラーのような(良い?!)生活を送っています。いや皆様の血税(ODA予算)で送らせて頂いています。だから本当は文句を言ってはいけないのだが、、、、。
 
  さて今回は訓練所での協力隊講座や選択講座を紹介します。これは隊員が任国で生活するうえで必要になろうという知識を与える講座です。中でも興味深かったもの(半分)を感想と共に紹介します。通信を読んでいる方でも海外生活やNGOボランティアなどで活動される際に参考になるかも。
 「異文化の理解と適応」;他国の異文化カルチャーショックは時に興味深いものでありますが暮らす時などはストレスとなります。完全理解などは不可能であり慣れる(平気になる)事が大切らしい。海外で長く暮らし帰国した隊員が掛かるのが逆カルチャーショック。自国にいても何か完全に馴染めない、祖国喪失症候群であり、そういう人を国際人と言うのかもしれない。
 
 「ユーモアの薦め、語学、異文化で」;これはサミットなどで活躍してこられた通訳家の公演でした。大統領達の重要なスピーチにはジョークが欠かせないように、それは初対面の相手でも警戒心を和らげるいわば言葉の武装解除法。英会話でもお互いにジョークを言い合えるようになれば(時には人種的やセクシャルなブラックユーモアセンスも可)慣れてきた証拠。日本人も無理に流暢にしゃべろうとせず、たどたどしく話した方が誠実さが伝わり向うもちゃんと聞いてくれるというもの。
 「参加型開発手法PRA」;いわゆるアンケート型の社会調査ではなく、村落の住民が参加して共に話し合いながら問題点や開発を考え計画していく方法らしい。字の読めない人や地位的に弱い女性などを考慮して小人数に分けて話したり地面に地図や絵やグラフを書いたり劇をしたり、いわば最近NGOなどでよく行われるワークショップみたいな物ですね。こうやると結構、自分達でも気づかなかった事を発見できることがあります。

  「WID women in development」;開発と女性。途上国開発で社会的、生産的にも見落とされがちな女性達に目を向けようというもの。これに関してはジェンダーの問題にしてもまだまだ日本は後進国ではないでしょうか。全てを平等にするのでは無く(自分の価値観の押し付けは時にそこの国の文化や習慣のバランスを壊しかねない)差異は認めつつ、差別的な慣習や制度に気づくことがまず大切。そしていろんな生き方の選択肢を選べる社会にしたいものですね。
 
  「海外での危機管理」;まず何より武器は持たず無抵抗。海外での強盗は99%が単なる物取りや空き巣。しかも服や小銭や靴などで、危害目的の悪質な物はめったに無い。そんな時は財布入れておいた小銭を渡せばすむのに下手に武器を出すと向うも出してくるので後戻りできなくなる。丈夫な日本製(中国やロシア製はダメ)の南京錠や音が出るブザーも寝るときには常備しておくとよい。
 まあなどなどと机上学習しているのですがどれだけが途上国で実践できるのやら。こういうのは実際問題に直面したときに実感する話しだと思う(思い出せればだけど)。
 
 ちょっと今回は説明ばかりで堅苦しくなってしまったかもしれません、次号は訓練生活最後の話といよいよ日本を離れグアテマラ出発についてのレポートです。それでは明日も朝からマラソンなのでここらで寝ます(すでに11時の消燈規則を違反している)。

日本出発、メールの偉大さ 4月

 桜がぼちぼち咲き出す季節になりました。この時期は別れと旅立ちがあり希望と不安の入り混じった気分になります。まさに私も異国に旅立とうとしています。
 
  駒ヶ根訓練所での(楽しい?!)訓練も終え、広島に1週間帰っていました。その短期間に市や県庁訪問、友人による壮行会の毎日であわただしい日々を送りました。ですから今ぎりぎり(明日早朝出発)で東京にてこの原稿を書いています。
 
  なぜこんなにオンタイムでレポートできるかといえばEmailのおかげなのです。訓練所にも半数以上の人がノートパソコンでメールをしていたし、任地にも殆どの人が持ってくみたいです。かつての協力隊にイメージされるような電気も水道も無いような地域に行く人は逆に少なくなりました(今はシステムエンジニアや電子機器などの隊員も多くいます)。つまりグアテマラから日本、広島はもちろんブータンやバングラ、セネガル、東欧の隊員まで瞬時に連絡が取れます(デジカメで写真もファイルで音声も送れます)。途上国においてはいつ着くかどうかもわからない手紙を出すよりこの方が確実で安く(各地の市内料金)送れます。
パソコンの無い人にはメールカフェがあります(半年前ラオスにもカンボジアまでにもメールカフェが出来ているのを見ました)。海外では1時間5$前後で使えます。特にあちこちを回る貧乏旅行者などは無料でアドレスが持てて何処のパソコンからもwwwでつながることができるhotmailが便利です。僕もアジア旅をしているとき各国から日本にレポートをしました。また旅で出会った友人もメールアドレスを聞いておけば今後何処にいても連絡がとれるわけです。放浪者は行方不明者みたいなものですからね。本当に特に海外にいるとメールは非常に便利です(くわしくはやぎさんのページにおまかせしましょう)。
 
  まあこれほど便利ですがやはり個人的には手紙の方が暖かみがあり好きです。また世界の情報化が進むとその恩恵に与れない人々のとの格差や(ちなみに豪州では全州の図書館にて無料で使えました)情報に溺れて大切な事を見失う社会になりそうです(いつも途上国から帰ると日本の情報量、速さに驚きます)。メールも携帯もTVもやはりしょせん1つの道具ぐらいの感覚が必要ですね。
 というわけでぼちぼち日本を離れます、現地ではアンティグアという都市で語学学校に1ヶ月通います。また報告ができればと思います。
 

日本人観光客襲撃と内戦の歴史 6月

 おひさしぶりですガテマラ協力隊食品加工隊員の羽熊です。訓練を終え広島を離れここガテにやってきました。丁度1ヶ月ほど前にこの国での事件が日本を騒がしたと思います。そうですガテのウエウエテナンゴで日本人旅行者の乗ったバスが現地住民に襲われて死傷者が出てしまうという残念な事件でした。日本での報道ではステレオタイプ的な先住民族=野蛮な未開で危険な国をイメージさせるが多かったのが残念です。(僕も含め)出発前は誰もガテマラなんて名前知らなかったのですが。でも悪い印象のみで知られるのも困りものです。全て危険なわけではありません。

  事件の起きた所も「秘境」なんかではなく昔からの観光地である平和な田舎の村の市場でした。本当に不運が重なった事件としか言い様がありません。やはり36年に渡る内戦、軍による虐殺がこの国の人々に残した爪痕は大きな物のようです。ですが通常、首都を除いて地方の街、村はのんびりしています。私が語学訓練を受けていたアンティグアという街も人々は親切で夜でも一人で歩いてバーやディスコに通っていました。皆さん安心(少々注意して)してガテマラに御越しください。
さて私はそのアンティグアという街で約1ヶ月の語学訓練をうけていました。学校のプール付の庭で先生と楽しく話して夕方はサルサ(メレンゲと供にラテンを代表するダンス)教室に通い、夜はバーで飲んで踊って、とっても厳しい訓練(!?)でした。ラテン人はとにかく踊り好きでなにかパーティーがあれば音楽が掛かり踊り始めます。さすがに子供のころから馴れているためか皆上手いです。日本人はラテン音楽もペアで踊るのになれていないのでなかなか踊れません、ですから最初はダンス教室で習う人が多いです。私も今では曲が聞こえると自然に踊りだすようにまでなりました。

  ここは世界文化遺産にもなっている夢の様な、名前のとおりアンティックな街です。欧米人旅行者、日本人旅行者(沈没者?)も多く、旅行社や安宿、お洒落なバーやメールカフェまで何でもあります。ピザ屋にイタリア、メキシコ、ガテマラ料理、日本料理店も2軒、バーガーキングやダンキンドーナツ、サブウェイ、マクド、何でもござれ。でもこの街は景観全体を大切にしているのでものものしい看板や新しい建物を建てることは禁止されている(京都の様にアンバランスにはならないでほしい)。ですから街はコロニアル調で道路は石畳です。4月にはセマナサンタという山車を担いで1晩かけて地面に描かれた絵を踏んで歩く独特な復活祭がありました。くわしくは広島出身の方(著者とはここからメールでお互いに情報交換を続けています)。が書かれた「ガテマラゆらゆら滞在記」を読んでみてください。ここの生活や文化が一般の視
  市民の視点で書かれた良い本です。他のガテマラに関する本は内戦問題や政治問題を扱った重いものが主です。
また中南米の旅行者はここを出発点として1ヶ月ほどホームステイしながらスペイン語学校に通う人が多いです。私のファミリーもとても良い人達で食事時に各国の下宿を含め皆で片言のスペイン語で会話するのが楽しみでした。実は今私は活動中(プールで遊んで)怪我をして再びここに戻って療養中なのです。療養1ヶ月後には本当に仕事(協力隊活動)が始められると思います。遊んでいるだけみたいに見えますが準備中なのです(たぶん)。まあ2年あるのでゆっくりやろうと思います。

コーヒーの話その1、10月


 みなさんおひさしぶりです。前号でお伝えしたとおり語学訓練中に怪我をして1ヶ月の療養後とっくに直り、ここグアテマラの地方都市コバンに赴任していました。しかし赴任直後に電圧のためにパソコンが故障、広島に修理に出していました。2ヶ月メールも書けない、原稿も遅れない(言い訳ですが)、辞書もデジカメ写真も開けないなどという不便な日々が続きました。まあ無くても死ぬわけじゃないんですけどね。そ
して今、私の元に無事に帰ってきました。彼は合計で地球を1週半くらい旅した放浪好きのパソコンです。

 ここは地方のわりと平和な街です。仕事も順調で僕の毎週やっている食品加工講座も好評ですでに10回を数えました。同僚もやる気があり協力的で助かります。下宿の人達も親切で美味しい料理、掃除、洗濯まで数人のお手伝いさん(こちらでは1軒に数人いることも珍しくありません)がやってくれます。近くにはバーやディスコ、映画館(1回約130円)もあり、ひょっとして日本よりいい暮らしではないかと思います。もちろんここまで恵まれた環境で働ける隊員は希なのですが。これを機会に仕事に趣味の研究にといろいろやっています。
さてここらで放浪料理人らしく「食」について報告いたします。

  ここ南米での伝統的な飲み物と言えばやはりカフェ(コーヒー)です。大人はセルベッサ(ビール)好きです、生産されるようになったのは最近の事ですが。世界の主要生産地であるブラジルコロンビアなどの中南米のコーヒーと言えども本格的に伝わったのは実は16世紀になってからです。元はエチオピアが原産地で最初は穀物と同じくスープ料理として食べられていました。10世紀にアラビアに伝わり粉砕、抽出、薬用利用。13世紀に煎って飲むことにより広まり、16世紀にはトルコで初の喫茶店「カフウェ、ハーネ」(アラビア語でコーヒー、ペルシャ語で家という意味)が出来ました。それがヨーロッパで16C〜17Cまでコーヒーハウスとして大流行しました。それは政治、経済の文化の談話室であり社交場でした。欧州大陸にコーヒーハウスとして残ったのに比べ、イギリスでは後に衰退しパブが町に立ち、家ではティーのみの習慣が残りました。アメリカでは18C後期、英国の茶税に反対し茶箱を海に投げ捨てたかの有名な「ボストン茶会事件」後、ティーを拒否してコーヒーの習慣に変わりました。それは英国風の生き方を拒否しアメリカ風に生きていこうという意志の象徴でした。そしてそれがアメリカ独立戦争の引き金となりました。

 さて話を中南米に戻しますと、16Cから世界商品の1つとして砂糖、コーヒーなどの需要が増すに連れてそれらを大量に単一栽培できる熱帯〜亜熱帯地、広大な土地、そして労働者となる奴隷が必要になりました。そこでブラジルに広大な土地を持ち、航海術にも優れ奴隷を調達できる植民地をアフリカに持っていたポルトガルが1番乗りをしました(ですから今でも中南米の内ブラジルのみがポルトガル語です。) また中南米、カリブ地域を治めていたスペイン、後にイギリスなどもカリブ海諸島の植民地に乗り込みました。「砂糖あるところに奴隷あり」(コーヒーもしかり)と言われたように大量に安価で出来て大陸で需要の尽きない世界商品は魅力でした。これによりイギリスの資本家の拡大が産業革命の基盤を整備してと言っても過言ではありません。しかしそれは現地の先住民族に新しい病気を持ち込み過酷な労働で滅亡寸前に追い込み、そこに新しく黒人奴隷を投入するという非人道的なものでした。そして若い労働力をさらわれたアフリカや土地を文化を荒らされ捨てられたカリブ諸島などが今でも最貧途上国でありうるのはこれらの植民地政策の傷跡といえるでしょう。
現在は奴隷制も無くなり賃金も払われますが、まだ一部のプランテーション農場では貧しい労働者が低賃金で働いて地主のみが儲けるという体制は変わりません。グアテマラの内戦時(96年終戦)は農場の多くのストを起こした労働者が共産主義者と言われ虐殺されました。現在ではそういうコーヒー農園で働く人たちの生活向上のためのNGOや海外援助団体が活動しています。僕の食品加工講座に来る生徒もそこの村落開発普及員でコーヒーの木の間に植えている果実をジャムやジュースなどに加工することを目標としています。やはり1日数$の稼ぎはなかなか変わらないのですが、、。

 そしてそれらのコーヒーが日本にもグアテマラコーヒーとして届けられます。"お店のちらし"1月号の記事の下にある内田さんの挿絵参照。本当にこれらはマヤ系先住民族(インディヘナ)の方々の手ずみにより収穫されます。というより国民の半数以上がインディヘナで農村へ行けばほぼ全員がそうです。ある国では伝統的な衣装を着た先住民は博物館の展示物か観光名物のようになっている(好む好まざるは別として)現代においてそれがあたりまえのグアテマラは特異な国だといえる。きらびやかな先住民族衣装(部族により異なる)も普段着で今では見飽きてしまったほどです。

  コーヒーにこれらの歴史があること、そして日本の裏側の農園で今日も先住民の人々が手でコーヒーを摘んでいることに想像を膨らませてコーヒーをいただいてください。よりいっそう深い味わいがすることでしょう。

写真:コバンでの祭りと民族舞踊とマリンバ

コーヒーの話その2、 11月

 今週も引き続きコーヒーの話をしたいと思います。そろそろ日本も寒くなっているとアツアツのコーヒーを用意して呼んでください。
ここでは11月から12月にかけてコーヒーの収穫が始まります。先週ガテマラの山間部の典型的なコーヒー農園に行ってきたのでそこの事を伝えます。首都からバスで3時間の小さな街(中心部は歩いて5分で回れる。)から乗合バスで1時間ひたすら山の中に入ったところにその集落はありました。集落といってもそれぞれのコーヒー農園労働者が山沿いに家を建てて点在しているので、同じ集落なのに低い家は海抜800m、高いところで1500m以上あります。そしてその山の斜面全部にコーヒーが栽培されています。コーヒーは亜熱帯の高い気温と温度が下がる山間部が最適です。ですから仕事に行くときは仕事道具を抱え山に登ってさらに収穫した袋をかついで降りてこなくてはいけません。僕などは山を上るだけで疲れてしまい作業どころではありませんでした。しかし彼らの1日の給料は20Q(250円)ほどです。ひどい扱いをする農園だとその半分くらいらしいです。半分自給自足しているので食糧難にはならないそうですが生活的には大変そうです。それがもう何十年も続いています。

 僕の行ったころは収穫前でコーヒーの枝に青々とした豆がたわわになっていました。その中にいくつか早く熟成した赤い豆があるのでそれを選んで先摘みしなくてはなりません。摘んだコーヒーは水に浸し流水にて殻を取り、そのあと機械、天火乾燥されて袋詰、出荷されます。その時はまだ焙煎されていないので青緑色した豆です。それを市場で買ってきて家でフライパンで焙煎、潰して湯を注いで茶漉しで漉して飲むのが昔からのやり方です。今は粉にされたコーヒーもインスタントも市場で売られています。こちらのコーヒーは薄めにいれて砂糖をたっぷり加えます。ジュースのような感覚でしょうか?でもアイスコーヒーはありません。嗜好に合わないそうです。外国人が中南米のコーヒー産地にさぞかしいいコーヒーがあると思ってやってきたらこんなコーヒーしか無くってがっかりするとか。良いコーヒーは全て輸出に回されて現地人は屑コーヒーしか飲めないなんて説もありますが単に飲み方の違いだと思います。インドの北東部を旅していた頃に知ったのは現地ではベンガル、アッサム、セイロンなどの特級の茶が輸出用に回って庶民には回らないということでした。ですがその屑茶と脂肪分の高いミルク、スパイスを使ってより美味しく飲むチャイを彼らは知っています。現地で寒い朝に道端で飲んだチャイほど美味しいお茶はどの先進国に行っても飲めませんでした。

  もちろんここでも外国移民が始めた喫茶店などで濃いコーヒー、カプチーノなどが飲めます。家のそばのコーヒー喫茶ではクローブ入りのトルキッシュからウィスキー入りのアイリッシュ、モカ、ウインナー(ウィーン風)などの40種類ものメニューがあります(1杯50円〜200円)。日本のいい喫茶店で飲んだら千円近くはするところですね。ちなみに良いコーヒーが最も集まるのは何処かと言われると日本か西欧と言われているらしいです。

 ではコーヒーが冷めてしますのでここらへんで、、いかがです、より深い味になりましたか?

 写真:コーヒー農園と集落、収穫、洗浄と皮取り、乾燥、袋詰と出荷



エルサル地震 2001年1月

 先日中米5カ国を3週間かけて研修旅行に行ってきました。各地の市場を回り、果物や料理を食べ歩き、工場や協力隊員の活動先を見学しました。中米で隣同士といってもこんなに文化が違うものかと驚きました。ところで中米の国全部分りますか?北部からグアテマラ、ホンジュラス、エルサルバドール、ニカラグア、コスタリカ、パナマ。僕も実際旅するまで知りませんでした。1月半ばに震災を受けたエルサルもその2日前まで滞在していました。もし残っていたら今ごろ神戸の時の様に震災ボランティアでもしていたのですが。現在エルサルの協力隊員も仕事を中断して復旧活動にあたっているとか。我々ガテマラ隊員には国境を越えて活動に行ける自由が無いのが残念ですが。
その後、インドの方が大きな被害が出たため今や皆の記憶にエルサル地震は薄いかもしれない、震災直後には広島のNPOを始め日本各地のNGOなどが援助に動いた。こんな地球の裏側の名前すら知らない国に直ぐに援助に動き出せる、やはり日本が阪神大震災により学んだ事は大きかったと思った。

 エルサルバドール(救世主という意味)といえばかつてオリバーストーンの映画で紹介されたように独裁、内戦と治安の悪い国しかイメージが無いが、実際首都を見るとその発展ぶり、国民の勤勉さに驚かされた。その国土の小ささや農産物の少なさなど不利な点を返上し工業国になろうとしている。実際様々な食品加工が生産され中米近郊の国に輸出されている。何か日本の戦後に似ている気がする。
食べ物といえばまずププサを挙げなければならない。トルティージャと同じトウモロコシの粉を水で練って薄く延ばし中にフリホーレス(黒そら豆ペースト)やチーズ、肉を入れ挟んで鉄板の上で焼く。中のチーズが溶けてこれが同じトウモロコシの生地かと思えるほど美味しくなる。生地に米の粉を混ぜたものはモチモチしており焼餅のような味がする、醤油で食べたい。ププサは通常キャベツの酢漬けとトマトサルサを合わせて食べる。現地人いわく全ての店のププサが美味いわけではない、また冷めたププサはだめらしい。ビールはピルスナーという少しビター&ドライビールが最も有名。スナックはコロン(ホンジュラスでオハンドラ)やスフレのようなチーズ味のケーキ、ケサディアがあった。これらは各国で違うお菓子を意味していた。隣同士の国なのに名が変わり、それが共通認識となるところが興味深い。

  やはり訪れた国、というよりも旅で出会った人達には思いがよる。新聞の国際欄で読めば遠い国で災害や内戦が起きた、平和な国に住んでいてよかった、くらいにしか思わなかったかもしれない。エルサルでププサを作ってくれた宿のおばちゃんやご馳走してくれた料理屋の店長、インドでスパイスの買出しに案内してくれた宿屋のおやじ、マザーテレサのハンセン病棟で笑って話かけてきた患者達。皆が思い出される。これが世界を旅する意味、国境を越え世界が近づくことではないだろうか(言葉、情報だけの国際化とか地球市民とかではなく)。
今度の地震で無くなられたひとの御冥福とエルサルにいつか救世主の手が差し伸べられることを祈って。


放中米食文化あれこれ 3月

 2月に協力隊員の任国外研修旅行に行ってきました。2年間の活動で3週間だけ許される国外脱出旅行です。市場をめぐり、料理を作り歩き、食べ歩き。
 
  日本からは中米とひとくくりにされてしまいますが(時には中南米ひとまとめ、中米を知らない人も多い)、各国大きく異なった文化を持ち、食文化においても多くの共通点と相違点を知ることができた。各国で同じ料理が異名で呼ばれ、また同名で別の食べ物もありました。ガテマラは主食にトウモロコシ、コスタリカ以南から主食も米へと変わり、カリブの海岸部ではアフリカ系のココナッツと魚食文化がありました。ちなみに熱い地域が唐辛子好きかと言えばそうではなくガテマラの寒い地域で酷く辛いチレソースをかけ、熱いパナマでは皆チリが嫌いです。太平洋岸でもエルサルバドルの様に魚食習慣のある国もあれば山脈の国ガテマラの様に殆ど無い国もある。日本人にとっては良い魚が手に入るか否かは死活問題となる。貧しい山間部ではアルマジロやイグアナなどの野生動物や目玉や内臓食の習慣があった。ニカラグアなどは内戦が長く続いたため限られた肉類を上手に使う知恵がついたのかもしれない。パナマは中米のシンガポールとも言えようか、パナマ運河あってのあの国で、その経済効果のためビルが乱立し、華僑系の中国人が進出している。中米唯一のチャイナタウンや大きな魚市場もあった。パナマは飲茶が安くて美味しい。コスタリカは中米のスイスと言われるように田舎を走れば果樹園や牧場が広がりチーズ、牛乳などの乳製品の豊富さを感じました。

 それはアジアほどの民族の交わりやアメリカのような多移民文化を作っているわけではないですが、環境に即した自然発生的な多様性があるように思えた。かと思えばガテマラ山間部のマヤ系民族の様に何千年も前から同じ作物を育て同じ器具で同じ料理を調理し変わらぬ文化を保持している、いや変わる外的要素の無い環境の中で生活し続けている人たちもいる。
黒豆といえばひょうたん島通信1月号に渡来豆料理の話があった、日本にもこんなに進出しているのだと嬉しくなった。フリホーレスは黒そら豆で煮込んでから大量の油で炒める。牛スープを少量加えることもある。ブラジルの伝統的フェイジョアーダも奴隷時代に農園労働者が主人の残した牛の臓物を自分達のフリホーレスと煮たことから産まれた料理とか。
一見煮小豆の様に見えるが甘くして食べる事はまずありません。だから日本人がここの人たちにゼンザイを作ったけど大不評だったとか。逆に日本人もこの塩味の黒豆に最初は慣れない。こちらの人はそれを毎日食べる。時には3食ということもある。肉が高価で食べられない貧しい地域などはたんぱく質をそれのみで補っている。大豆が畑の肉と呼ばれるように豆類には8種類の必須アミノ酸を含むたんぱく質を含み、ビタミンC、B類、ミネラルも豊富。
 
 最近は煮るのが面倒と敬遠されがちな豆ですが、日本にも昔から大豆などを上手に利用する知恵がありました。醤油に納豆、豆腐、豆もち、おから、、、etc。豆はこの小さな殻を破りこれから植物に成長するためのエネルギーが全て含まれている気がします。その凝縮した小さな粒を食べる事が肉以上に体にいい事を日本の先人達は知っており加工していた。マヤの先住民も昔から食べ続けているのでしょう。アメリカですら現代栄養学から低エネルギー高蛋白のTOFUを再確認しもてはやすようになったのはつい数年前です。
これを機会に忘れられがちな豆、穀物をもっと見直してみたいと思います。ここでフリホーレスと同じくもう一つ外せない大切な穀物があります。それもマヤの先史時代から作られ今も毎日食べられているものです。それはいったいなんでしょうか?ヒントは本文中!なOほどざワールド!?、、、、、、、答えは次号

主食の違い 5月

 最近パソコンが壊れ再び日本に修理に送り返していたので前号の原稿を落してしまいました。

  さて先々月から穀物の話の続きです。"フリホーレス(黒そら豆)"と同じくガテマラに欠かせない食べ物は"トルティージャ"です。それは乾燥トウモロコシを石臼で潰して石灰を加えて"マサ"というボール状にしたものを小さくちぎり丸めて薄く平べったくし、鉄板で焼いたものです。インドのチャパティに似ています。おかずをそれに包んで食べます、多い人は七枚も八枚も食べます。パーティーでは山積みのそれが見られます。トウモロコシにも淡白な白色種があったり、甘味のある黄色、味のある黒などがあります。最近は自分の家で挽かなくても"マセカ"というインスタントの粉がありそれを水で溶いたらできます。しかし挽き立てのそれとは味が格段に違います。トルティージャに具を挟んで揚げたものがタコス、メキシカンタコスと言って揚げた生地の上に肉が乗ったものなどは日本でも有名なのではないでしょうか?しかし揚げたものが出るのは現地では酒のつまみのときかおやつぐらいの時です。

 朝食や昼時になるとトルティージャを手のひらで起用にパンパン叩き伸ばしている音があちこちから聞こえます。僕も挑戦しますが手のひらにひっついてそれほど綺麗に伸ばせません。その調理法は母から娘へと伝えられ、それが数千年前のマヤ時代から続いてきたのです。不思議に思うのは、辺境の村々ではフリホーレスとトルティージャのみを食べて生きている人たちがいるということです。たしかに植物性蛋白もビタミンも豊富、石灰を使うのでカルシウムの補給もできる。たまの祭りなどで鶏肉とかは出るそうですが、それであの重労働を行いつつ体を保っていけるのか疑問に思ったものです。たしかに蛋白質の所要量が少ないので中米インディヘナ(インディオという言葉は差別的というので今は使われない)男性は他の民族に比べ小柄である。しかし女性においては殆どが横に丸く大きい。その腰周りも日本人平均の3倍はあるのではないか。一度バスの座席に挟まって抜けられなくなり周りの人に救出されたお母さんがいた。思うに子供を6人、時には10人以上産むために脂肪を蓄える為にああいう体型になっているのだと思う。そして前述の二つの食品だけでその体が作れるのは、伝統的に食べ続けた(それしか食べれなかった?)せいで遺伝子情報レベルでそれらを効率よく分解、吸収でき体を創るシステムが出来上がったのだと思う。考えてみたら日本人も何千年も米を食べてきた。
 
  肉食をしない農耕社会において大豆と野菜(魚も時に)とそれとで日本人の体を創ってきたのである。ちょっとおおげさに言うとそれは日本人の農耕文化、精神面にも大切である。海外で暮してやはり何が一番食べたいかというと白い炊き立ての米と漬物である。パン食が本格的に入ってきたのは戦後の学校給食からです。それはGHQからの余剰小麦売りつけ洗脳政策だったかどうかは知らないが、はたして長年続いてきた主食の文化を数十年くらいで簡単に変えられるものだろうか?ここの様に食の保守性の強い所にくると疑問に思う。たしかにここも中産階級はスペインの影響もありパンにスパゲッティー時にはアジア料理なども食べる、しかし食事にはトルティージャが欠かせない。あるグアテマラの友人は日本に留学するときダンボール箱で乾燥豆とマセカを運び1年間を自炊で過ごしたそうである。ここの食事に白飯を出したらどうなるか?何とトルティージャに挟んで食べられてしまうのである。そして「このライスは味が無い」と言われてしまうのである。彼らにとって米は主食ではなくおかずの一品なのである。つまり白い味の無い、塩すら使っていない白いご飯なんて想像つかないのである。所変われば主食変わる。
 
 先進国の様に食の多様性を楽しめる事は非常に恵まれたことですが、自分達の主食の伝統まで捨ててそれを求める事はここでは行われない。それを体が知っているのでしょう。

民族の酒  7月

 何処の国でも男達は酒が好きだ。ラオスの田舎でも香港の屋台でも中米インディオの村でも、言葉が通じなくても差し出されたわけの判らない蒸留酒やどぶろくを共に交わせばそれで仲良くなれる。人間いや動物の根源にある共通したなにかがあるのでしょう。

  イスラム教徒や敬虔なキリスト教徒など宗教的に禁じられていたり(彼らの中でも隠れて飲んだり海外に飲みに、買出しに行く人はいます)、また習慣的に女性は飲めないなどの地域はありますが、先史時代より酒は世界で造られ飲まれてきました。私の大学時代の恩師、小泉武夫氏(醸造学科教授)は、酒は何処の地域、民族でも自然発生的に造り出されるという"酒の多元起源説"を学会で唱えられていました。果実、つまり糖分があればそこに空気中の野生酵母が付着してアルコール醗酵が始まる。これは何処でも見られる現象です。買って忘れておいたバナナが醗酵して酒っぽい香を出していたなんてことはよくありませんか?アフリカでも落下した果実があちらこちらで醗酵し、それを食べたキリンが千鳥足であるいているという面白い光景もよく見られるそうです。サルにしろ、木の実を窪みに溜めて醗酵させサル酒を造ります。人類がこんなに簡単な酒造りを工夫しないわけがないのです。先史時代より各地で人々の間で自然信仰的な民族宗教が産まれてきたのと同じく、酒は神に捧げる供物、また飲むことにより軽いトランス状態に入り神に近づけるもの、日ごろの疲れや憂さを取るのもの、また祭りでの嗜好品として愛用されてきたのでしょう。

 ここの場合、メキシコでリュウゼツランを使った蒸留酒テキーラが飲まれているのに反して、中米ではサトウキビから造った蒸留酒ロン(英名ラム)が造られています。何が造られ何が国民酒として飲まれるかというのはその土地の風土に依存する所が大きいです。 
砂漠地帯でサボテン課の植物が豊富なメキシコ。中米に砂漠は無いがサトウキビが栽培しやすい亜熱帯地域、スペインの植民地時代に適度な平地とアフリカからの奴隷がいた。また当時、世界市場としてもいくらでも砂糖の需要があったという歴史的なからみがありました(植民地時代のコーヒーと砂糖貿易による悲劇については昨年のひょうたん島通信10月、11月号で少し触れているので読み返してみてください)。また、カビが生えやすい適度な湿度と米を主食とした民族が、山脈より沸き出づる豊富な良水を使い日本酒という洗練された酒を造り出したことはご存知の通りです。また大麦とホップが豊富なオーストリア、ドイツから産まれ世界に伝わり、今や何処の国民にも好まれ世界商品となったビールも考えてみると不思議な飲み物ですね。
 
  ここの国ではセルベッサ(ビール)ガジョがすでに国民酒ともなっています。ラガーっぽく飲み口が良く、1本80円くらいです。ですが、この値段でも労働者にはやはり高いので、彼らは蒸留酒ロンを飲みます。また伝統的にボッフというサトウキビによる濁酒(濁りワインとでもいいましょうか)を造ってきました。それもジュースのような安い値段で出来るので祭りになるとバケツ一杯のそれを人々が競ってペットボトルを持って買いに行きます。ですが味というと、糖度や酵母、温度の調節も行っていないので度数も低く苦く酸味も舌につきます。ですがまだここではスペイン、チリなどの外国産のワインを買えて楽しめるのは一部の人達です。ワインの味も慣れていないので、ガテマラ国産ワインなどは甘いシロップジュースのようで、料理用にもなりません。日本でも戦後、赤球ポートや甘いドイツワイン(ラインリースリング)のみが好まれたのと同じです。
 
  酒の世界は奥が深く、酔うとはまり込んでしまいます、私の様に、、、ご注意ください。

写真:マヤの女王コンテストの祭りで振舞われるどぶろくとスープとタマーレス
                             

醸造酒造り  10月


先月は各民族の酒の自然発生について話をしました。今週は実際に酒造りについて話したいと思います。

世界には様々な酒がありますが、おおざっぱに分類すると以下の様になります。

1、果実や穀物、乳の糖分を酵母や麦芽、麹などの加工助剤で醗酵させた酒
ワイン、果実酒、スパークリングワイン(シャンパンはフランスの商品特許)、ミード(蜂蜜ワイン)、ビール、馬乳酒、日本酒、など。

2、醗酵させた上の酒をアランビック(蒸留装置)で蒸留し熟成させたものが蒸留酒
ワインからブランディー、ビールからウイスキー、日本酒から焼酎、果実酒からスピリッツ類など

よく間違われるのが、日本などで梅酒などホームリカーと言われているのは蒸留酒に果実を漬け込んだ混製(リキュール)で、醗酵は起きていません。日本では酒税法という明治の富国強兵時代の増税時から今も続いている悪法があります。この趣味の醸造すら禁じた、行き過ぎた法のせいで日本の農村での酒造りの文化、そして米文化すら衰退してしまいました。国が許可したのは焼酎メーカーを儲けさせる為の梅酒造りだけでした。欧米諸国においては酒造りは趣味の一つで、フランスでも趣味で始めた家がいいワインを生み出し世界的に有名なワイナリーになるというのは五万とある話です。ここの国でも一応酒税法はありますが、大題的に販売しないかぎり規制にはなりません。そういうわけで私も現在この国の職業訓練校でどうどうと市民や農家に酒の造り方を教えています。残念な事ですが、日本ではさすがに国の機関で公務員がこういうことはできません。塩、米の専売法も崩れた現在、早くこの酒税法を無くして、公然と人々が酒造りを楽しめる日が来て欲しいものです。

 さて、前置きが長くなりましたが、最も簡単な果実ワインの基本的な作り方です。
原料;各種フルーツ(イチゴや木苺、リンゴやオレンジなど果汁の多いものが適している、ドライフルーツでもできる、)、蜂蜜でもOK、。 ドライイースト又は天然酵母。砂糖。ワインのビン2本、または2リットルほどのガラス容器。

作業;フルーツはミキサーにかけるかジューサーで絞ります。1リットルくらいあればいいでしょう。ドライフルーツなら水を加えてミキサーで潰します。蜂蜜は200mlに対して800mlの水を加えます(蜂蜜の場合砂糖は加えない)。

アルコール度の高いワインを作りたいならそこに砂糖を加えます、糖度24度(%)までです。それ以上になると酵母が上手く働いてくれません。だいたいフルーツは糖度10%前後を持っています。ですからたとえば1Lの果汁があればそこに100〜150gの砂糖を加えてください。糖度24度というのは舐めてみて「飲めるけどちょっと甘ったるいかな?」くらいの甘さです。
 それにドライイーストか天然酵母を小さじ一杯も加えれば充分です。蓋をかぶせてください。醗酵中の二酸化炭素を逃がさなければいけません、アルミホイルと輪ゴムでもいいです。

醗酵させる場所は温度が20度前後の所、家の床下くらいでしょうか。時々気に掛けてのぞいて愛情を注いであげてください。皮や果実一緒に混ぜたらそれが上に浮いて帽子を作ります、雑菌が繁殖しやすいので、時々つついて崩してください。

2週間経ったら濾し布かコーヒーフィルターで濾してください。オレンジワインなどは苦く感じる事があるので砂糖を加えたり冷やしたりして飲みやすいように調節してください。木苺や赤ブドウなどのワインは何度か濾して1年くらい熟成させても美味しいものができます。

自家製は酸化防止剤などを使っていないので冷蔵庫で保存して早めにお飲みください。酸が立ってきたらあえて空気に触れさせ果実酢を造るのも手です。

日本では果物が高いので時期外れの果物で少量を作るのならひょっとすると輸入物のワインよりコストが掛かってしまうかもしれません。しかし、少々味が落ちようが、その醸造のプロセスを楽しむ事が大切で、やはりそうやって造った自家製のワインというものは手前味噌ではないのですが美味しい物です。

 だまされたと思って一度造ってください。その簡単さに驚くはずです。

 これであなたも酒の世界にはまりこむ一歩目を踏み出したことになります。

写真:発酵中のもろみ、木苺のリキュール



コーヒーブレイク 11月

ひょうたん島通信にこちらのコーヒーの話を2回に渡り載せたのが丁度1年前になります。詳しくはHPのバックナンバーを見てください(HP宣伝)。1年ぶりに再びコーヒーの話です。

先日、素敵なコーヒー店を見つけました。店は半分住居で大きくは無いのですが、店主のコーヒーへのこだわりは今まで見たことのないものでした。店には小型の豆の焙煎機があり、毎日その日の分を焙煎しています。彼は温度や仕上がりを真剣な顔でチェックしていました。いい具合に仕上がると蓋を開ける。豆が外にザーと出てくると同時に店内がコーヒー豆の香りで充満する。それを豆の種類によって機械で粉砕、そしてカリタでコーヒーを出します。入れる器具やコーヒーカップはピカピカに磨かれており。その一つ一つがまるで彼の儀式を見ているようでした。たぶんコーヒーの神に取り付かれているのでしょう。

そのコーヒーは香りからして違った。重いわりには飲み口が爽やかだった。ここの国に着てからコーヒーを毎日飲む習慣が着いてしまったし、中米各国を回ってコーヒーを飲んできたがこんなに美味しいのは初めて飲んだ。その朝はコーヒー3杯で3時間は話し込んでしまった。

彼はアメリカ人でかつてケニアや南アフリカ各地をコーヒーの商売で回っていたらしい。奥さんは南アフリカ人店でケーキを焼く。小さな女の子もいる。彼女にとって店が遊び場所だ、2階に住居があるため家中がコーヒーの臭いで包まれている。まさにコーヒーまみれの生活だ。将来さぞいいコーヒー職人になるだろう。彼女が以前アメリカからメキシコをミニバスで70日間かけて降りてきた話をしてくれた。各地のコーヒー農園を回ってコーヒー豆を何袋も買い込んで(何十キロにもなる)、車の中では豆に潰されそうになるし熱いし、もう父のコーヒー狂いに付き合うのも大変だと呆れた顔で語ってくれた。

日本は世界一のコーヒー豆輸入国だ、お金さえ出せば各国の最高品種が手に入る。何処の豆がいいとかこだわりを持っている人は沢山遭った。しかし彼のように専門店を持ち、家族ぐるみで人生をコーヒーに捧げる人は稀だ。理解し協力してくれる家族もすばらしい。

日本だとそういった若いときの夢などよりも、就職し安定した収入と地位、結婚、老後の保険などが先に来てしまうようだ。最近、大学時代からの友人のメールでも結婚したとか、何所何処会社の何々役になったとか、いう話が来る。私の様に海外で好きなことをやっている友人も悲しいかな、年々少なくなってくる。もちろん日本で生活しサラリーマンをやる事は大変な事だ。ある意味日本は世界で一番生活するのが大変な所かもしれない、ここみたいにのんびり楽しくやっている国からは考えられない事だ。大切なのは海外か国内か、独立かサラリーマンかとかではなく自分の好きな事、夢に近づく事を納得のいくまでやっているか、そしてそれが回りの人達も幸せにしているかではないだろうか。

 そういう意味で彼のような自分の好きな事をとことんしている人やひょうたん島のネットワークで出会うユニークな事をしている人達を見聞きすると自信が出てくる。そして私自身も世界の食探求を続ける事によって多くの人々に自信を与える事ができればと思う。

 コーヒーの探求をライフワークとした店主と食の探求をライフワークにしようとしている放浪の料理人との出会いであった。

 

 コーヒー危機12月

   今年に入ってから世界的にコーヒーの値が暴落しました。世界銀行の無計画な推進、各地での一時的な作付けブームが原因と言われています。世界がある時期に求めた農作物を大量に造り続け、その需要が頭打ちになると値割れする。第3世界が植民地しプランテーション型の農場が出てきたときより繰り返してきた過ちです。

 ここガテマラでもフェアトレードを行っている農園を除いては、ただでさえ低賃金で重労働を強いられてきた小作人達はより厳しい状態におかれました。グアテマラでのコーヒー農園の失業者が十数万人。ニカラグアなどでも数万人と言われています。この国は特に農地改革が遅れているため、16世紀のスペイン占領時代から一部のラディーノ(白人系ラテン人)が大勢の小作人を低賃金で単一の作物を植えさせるプランテーション農業のシステムが大半で続いています。それがコーヒーであったりサトウキビであったりカルダモンであったり。しかしそれが本人達の口に入ることはありませんでした。コーヒーにしろ品質のいいものは輸出用に回ります。安い品種を湯で薄めて砂糖を山のように入れて飲むというのがここの習慣です。ですから自分の畑を持っていないものはトルティージャもフリホーレスも作る事ができずに、結局、給料を使って食料を買うしかないのです。

 コーヒーの下落を受けて私の職業訓練校食品加工課にも噂を聞きつけた農園主からコーヒーの加工品開発の依頼が来るようになりました。いろいろ試作をして作ってみました。

 コーヒー入りチョコレート。コーヒーキャラメル。コーヒーゼリー。モカゼリー。コーヒーのカラメル包み。コーヒー殺菌牛乳。コーヒーリキュール(カルーア)。などなど。

 造ってみるといろいろできるものですね。こちらの人は甘いもの好きなのでやはりキャラメルなどの方が人気でした。日本人の好きな苦めのコーヒーゼリーにミルクをかけるというのよりも、ゼリー自体にたっぷり砂糖を入れる方が好まれます。

 先日講習会を開いたコーヒー農園の中にある村は、冷蔵庫どころか電気も無い、川の水を使うという所なので苦労しました。読み書きどころかスペイン語も片言の人が大半(こちらではケクチ語というマヤ言語を使います)、身振りと片言通訳付きでなんとか行いました。身の回りにあるコーヒーを利用するという概念が全く無いため講習会はめずらしかったらしく好評に終わりました。最後に私の同僚と村のリーダーが「とてもいい講習会だった。せっかく遠い日本からボランティアで彼らは来てくれている。我々の生活を良くするにも彼らから技術を学ぶ事はいいチャンスである。」という内容の話をまとめにしてくれた。これこそ我々隊員が言いたい事なのだがなかなか現地では理解してもらえない。たとえ我々が「あなたたちは先進国の技術を学ばなければいつまでも貧しいままなのですよ」などと言おうものなら皆にそっぽを向かれます。しょせん我々は2年しかここにいない保護された先進国の外国人なのです。どんな立派な計画を立てても失敗したとき彼らの生活、貧困の責任を負うことはできないのです。ですから押し付けるよりも現地の人達の意思、行動力を最優先させなくてはならないのです。私の教えてきた、数え切れない加工技術から生徒の一人でも一品でもいいから造ってくれて、家族で、村で作って、上手くいけば市場で売れるくらいになってくれればいいのです。実際に実践してくれている生徒は多くいます。“加工技術を教える”といいましたが、“先代の伝えてきた食の文化を紹介する”と言ったほうが合っているような気が最近はします。

世界の人々が少しでも貧困から救われ、家族と共に飢えずにその日が過ごせるようになる時代が来るよう。まず来年が平和な年になるように願いつつ。







 今も生きるマヤの食、文化。1月2002年

さてここでイシュカネーはこの黄色い穂のトウモロコシを臼で挽き、これから9種類の飲料を造った。そしてこの食糧のおかげで力がつき、脂肪(あぶら)がのったのであった。そしてまた、この食糧から人間の筋肉、活力が創られたのであった。これはみな、アロムとクァホロム、テペウとグクマッツの業であった。つづいて神々は我らの最初の母、最初の父について語り合った。そして黄色い穂のトウモロコシと白い穂のトウモロコシでその肉を創り、トウモロコシをこねて人間の腕や足を創った。我らの父たち、すなわち初めて創られた4人の男たちの肉となったのは、このトウモロコシをこねたものほかならなかったのである、、、、。

これはマヤ、キチェ族の創世神話ポポルフ=ブフの1節です。作成は千数百年前、発見は18世紀。ここでいう飲料はトウモロコシを砕いて水や牛乳を加えて飲むアトールという甘い飲み物。赤色、黒砂糖の黒色、バナナの黄色など様々なバリエーションがあります。またトウモロコシを練るのはトルティージャという主食を作る前段階のマサ(生地)を作る作業です。まさにここの先住民の人々にとってはトウモロコシこそ、マヤ時代から続いてきた、名実共に生きるための糧であるのです。

日本では米がその名のとおり日本人の糧(かて)となり金、国力を計る何万石という単位になりました。米から造る日本酒も元は神社で造られ、神に近づくための神聖な儀式に使われたものでした。海外で長い間暮らすと時々美味しい日本米が腹いっぱい食べたいという欲求が出てくるのは、日本人DNAから出されるものなかは知りませんが。

話を戻すと、こちらの先住民の食にしても文化にしても非常に保守的と言われます。内戦時には先住民というだけで多くの村が襲われ数十万人が虐殺にあいました。その時でも古典マヤ時代からのウイピルという民族衣装を脱ぎませんでした。遡って16世紀からスペインによる史上最悪の侵略、民族浄化が始まり、多くの中南米諸国の先住民が抵抗し、敗北していきました。ちなみにメキシコのアステカ文明が2年で征服されてしまったのに対し、マヤのある民族は1世紀以上も戦いぬきました。

カリブのように絶滅させられた民族もありますが、多くの民族はスペイン語に言語を変え、キリスト教に改宗させられました。邪教ということでマヤ聖地は破壊され、マヤの神聖文字経典はことごとく焼かれました。現在欧州の博物館に略奪されたまたま発見された4つだけが保存されています。

それらの侵略者の文化を受け入れたかの様に見えたマヤ民族であったのですが、外ではスペイン語を話し、家ではマヤ言語を話す。キリスト教会でローソクを使うマヤの儀式を行い、キリスト経典のサンフランシスコなど聖人の名前の間にマヤの神々の名前を加え唱えたりしてきました。私の働いている街の近くにも多くの隠れた聖地や教会と合わさったマヤ教会。市場、村では普通にマヤ言語の一つケクチ語が話されます。保守的だからこそ今も2言語が残り、数十の部族、その衣装が残る国それがガテマラなのです。

 先日、キチェ族の祭りに行ってきました。教会から少し離れた小高い丘の中にはかつて秘密であった聖地があります。そこで儀式用の民族衣装を着た先住民の若者が経典を唱えていました。彼の手にあった、ぼろぼろの小さな本は「ポポルフ=ブフ」でした。そこの空間が千数百年止まっているような錯覚を感じました。           つづく


マヤ文明2
 亜熱帯の森林の中に、石で造られたマヤの神殿が目の前にそびえ立っている。神殿の前ではお香、煙焚かれ、シャーマンと思われる老人二人がその一族であろう人々に向けて経典を唱えている。子供達は退屈そうにしながらキョロキョロしては親に怒られている。子供の民族衣装姿がまたかわいい。これは現代の話です。いや、マヤ古典期の話と言っても同じでしょうが。神殿自体はすでに観光地であり見慣れたものでした。それよりも儀式が見られたのは運が良かったです。彼らはどこかの観光民族村の人々の様に、客目当てで民族衣装を着ているのでも、儀式を行っているわけでもないのです。ただ千数百年前のマヤ古典期からやってきた事を自然と今までやっているだけなのです。その神殿がいかに開拓され、観光化され、外国人がカメラを持って訪れようとも、彼らには関係ないという顔で行っているのです。
中米にはメソアメリカ文明というものがありました。ひとつのメキシコで発展したアステカ文明は高度な神殿、中央都市国家を作っていたにも関わらず16世紀頭にスペイン人コルテスの策略により2年で崩壊させられるのです。それに代わって、グアテマラを中心としたマヤ文明が発展したのは3世紀〜最盛期は8世紀末。9世紀末には文明の崩壊と人々の年からの流出が始まったのです。その後、多くの部族に分かれましたが、かつての勢いは無く、スペイン人に征服されてしまうのです。
マヤ文明は当時、巨大な石の神殿建築技術、ゼロの概念を最初に持った数学、一年を365日に分けていた天文学など高度な文明を持っていました。では、なぜ滅びてしまったのでしょう。それは長年考古学者たちの疑問でした。スペインが到着したころには既に文明は滅びていました。数字などの神々の顔の形をした神聖文字を石に刻む事があっても、紙に歴史を記したりする事はほとんどなかったのです。残っていた物もスペイン人に奪われ、紛失したり焼かれたりしたのです。
征服時にはこの新大陸には草木で造った家に住む未開な人々しかいないと思われていたのに、奥地のジャングルから高度な巨大神殿が現れるにつれ人々の考え方も変わりました。多くの考古学者が発掘に訪れました。初期は浪漫的な想像から、かつてマヤ文明は争いの無いユートピアであった。シャーマンはいても差別や階級、戦争も無かった。だからスペインとの戦争にあっけなく負けてしまった。という論が主流でした。発掘が進むにつれ、翡翠に実をつつんだ王の墓、心臓をくり抜き生贄にする像、王が神殿の上に立ち、生贄が兵隊につきだされるなどの壁画が発見されるにつれ、絶対的な王が支配していて、戦争を近隣諸国と繰り返していた、戦争の目的は生贄を確保する事、傷つける武器ではなく捕獲する武器が使われたという論になりました。20世紀のベトナム戦争時代は戦争を繰り返した結果、疲弊して崩壊したという「戦争文明崩壊論」が唱えられ。エコロジーの近代には過剰な農地開拓、森林伐採の為、土地が流出し、人々が農地を放棄したという「環境破壊文明崩壊論」などが出てきました。考古学といえども時代の子なのです。他、天災、地震、疫病説などいろいろありました。しかし、最も有力な説は、次のようなものです。マヤは一度も中央集権国家は作れず、各地に地方都市国家を作り戦争を繰り返していた。そこには絶対的な神とも言える王がいた。王は敵にも臣民にも畏敬の念を抱かせるため贅を尽くした神殿に住み、死後の為のピラミッドを造った。神殿の周りには庶民が住んでおり、質素な小屋に住み慎ましい生活をしていた。しだいに王の権力誇示競争に力が注がれ、人民は疲弊し、経済も後退していった。
つまりマヤ文明は宗教を重んじた争いの無い平和で平等な社会というロマンチズムは否定され、マヤ人とはもっと誘惑に弱く、けんか早く、疑心的で傲慢であったのでは。それにあえて私は"がんこ"と加えよう。まさに今のマヤの末裔、先住民にあてはまる、、、、でもずっと人間的といえます。


2年間、つたない文章にお付き合いいただきありがとうございました。今月で任期を終えて帰国します。また、広島で機会があればお会いしましょう。 コータ