食遊記東南アジア編


はじめに

泥だらけの笑顔で子供達が駆け寄ってくる。1年ぶりの再会なのに僕の名前を憶えてくれていた。「コータ、コータ!」それ以上は言葉が通じなかった。そしていらなかった。大人達も同じように屈託の無い笑顔で迎えてくれる。身振りで会話をする「一緒に飯を食わないか?酒飲め。具合はいいか?恋人はいるの?いつ今度は帰ってくるんだ?」。こんな遠い異文化の国で言葉もろくに通じないのに共に働き、生活を送ることができる。やはり同じ人間同士なのだと実感する。
日本に帰って忙しい日々をすごしていても、アジアの子供達、友人の笑顔が目に浮かぶ。時がゆっくり流れていた。経済的な貧しさはあっても人間的な豊かさはあった。そこには日本が経済成長するときに置き去りにしてきたものがあったのかもしれない。そしてまた僕はアジアへ引かれ戻っていく、、、、。
アジアに関わってはや5年が経った。十数カ国を訪ね、タイには毎年行っている。しかし知れば知るほど奥が深く、謎が深まる。アジアについての定義化や体系化する事は難しい。いわば全てが混じり合っている、混沌、無秩序、活気が似合う。それらが無理に画一化されたら無味乾燥で合理的な近代都市にしかならない(シンガポールや日本が向かうように、、、)。
東南アジアの食文化はかつて擂り鉢とスパイスの様にインドから影響を受け、その後箸や米、麺の様に中国から影響をうけた。そしてその起源は中国雲南省と言われる、ニンニクや生姜の香草を使いタイやラオス料理の原型となった。味噌や納豆や豆腐も作ることから日本の発酵食文化の基ともなった。文化はそれぞれに影響し合って形成される。東南アジアは陸続きでもあり混ざり方が著しくそもそもそれをこの国は何料理とはっきり区切ろうというほうに無理がある。国であれ、民族であれそうだということに気づかされた。
僕が解説するのもその国の食文化の代表的な部分にすぎないと理解していただきたい。そして何より自分の目で見て、食べてその奥深さを体験してもらいたい。
食遊記第一弾豪州編も好評で第二弾東南アジア編を出すこととなりました。99年秋に回った6カ国の最新情報と共にかつての記録を元に書きました。インド、ネパールや中国、韓国など他のアジアの国々も紹介したかったのですが都合上割愛いたしました。また次の機会にしましょう(たぶん、、、、)。
食遊記は食文化をテーマに食べ、遊び、放浪を続ける料理人がその国の食から文化、習慣や社会を紹介するものです。料理本ではありません台所で読む必要はありません。
絵と写真と文:放浪料理人コータ

PS:この文章は広島廿日市国際交流協会の援助により完成、出版した冊子用の原稿です。原本の各ページには写真と絵が入っていました。現在再販できる機会を探しています。ご了承ください。


シンガポール


 シンガポールという国はアジアの中でも異色な国だ。ビルが立ち並び区画整理された道路に公園、芝生、ゴミの落ちてない道、MRT(モノレールのような列車)。そそくさと忙しそうに歩くビジネスマン。350万人、数民族が640km2の土地にひしめき合っている。まるでアジアではないヨーロッパの近代都市にきたような錯覚を覚える。そして他の途上国を見てきた者は違和感を感じ、嫌いになる人が多い。僕も始めて来た時は1日で脱出してしまった(物価も高くお金が無かったという理由もあったが)。しかしこの熱帯の熱さと各民族の底にあるパワーを感じるとき、いくら先進都市の装いをしてもここがやはりアジアだったと再確認する。
 シンガポール人の定義もまた難しい。中国系が77%、マレー人14%インド人7%といった構成だ。シティの中心にチャイナタウンをかまえその北方向にアラブ人街やインド人街がある。そこに行くと料理店や食料品店、宗教関係の道具や寺、服屋などその民族独自の物が全てそろっている。特に中華街のビルの地下にある中央市場は活気がある。豚を青竜刀のような包丁でぶったぎるおやじや蛙を生きたまま手際よく皮をはがし、はらわたを出しお持ち帰りのビニールに包んでいるお姉さんなどを見ていると、やはり中国人だと思えた。しかしこれらの店は区画整理された建物におしこめられている気がする。屋台や路上に店を出したりするのは禁止されていてどれもこぎれいなみせで、面白さや怪しさは半減する。近年チャイナタウンも改装され日本のそれのように観光用にきれいで高くなってしまった。
ここの食といえばホーカーズ(屋台村、フードコート)が有名だ。路上屋台を建物の中や屋根の下に集めたもので中華、インドネシア、ニョニャ料理(中華系マレー料理)、インド料理、日本の寿司屋や鉄板焼きまである。吉野家の牛丼が結構人気があった(プラスチックの容器で豚丼なんて変なメニューもあったが)。ニュートンサーカスホーカーズは日本人などの為の観光用になり質は落ちてしまった。チャイナタウンや地方の方が庶民的で良い。

チキンライス;ライスの上に柔らかく調理された鶏のぶつ切りが乗っていてチリソースやオイスター系のソースで食べるのだが、そのライスがチキンスープで炊かれていて充分すぎるほど味がついている。それにチキンスープが付いてきて、鶏を100%楽しめる料理であろう。食材は骨まで使い切るという中国(海南)人らしい料理だ。
マレー、インドネシア料理にミーゴレン(焼きそば)やナシゴレン(焼飯)やサティ(焼き鳥)などがある。詳しくは次の章で。
リトルインディア(インド人街)に来てマサラとお香の香りとインド音楽を聴けば2年前ガンジス川から登る朝陽をあびて沐浴していた日々がフィードバックしてくる。現地の食事はもっと粗末だったが、ここのは豪華だし肉も豊富にある(インド北部は菜食主義者が多く牛だけでなく肉料理が少ない)。
ここのオリジナルにゴメスカレー(フィッシュヘッドカレー)がある。一攫千金をねらいインドから文無しでやってきたゴメス氏が、人々が魚の頭を捨てるのを見てそれをもらって帰り、インド風にかれーで臭みを消して食べる料理を創り出したらそれがヒットした。それを聞いた華人は飛びついて同じのを作り名前が瞬く間にひろまったとか。フィッシュヘッドカレーに名前を変えコピーする所が中国人の商才というかしたたかさというか。私がオーストラリアの料理店で働いていたときも捨てられる鯛のお頭をもらって帰って兜煮やスープを作ったものだ。欧米人には気味悪いみたいであった。あら煮や刺身などから見て、そもそも魚の調理の王者は日本人だろうと思う。

 この様にここでは中華系を始めとした様々なアジア料理が食べられるのが魅力だ。オーストラリアと同じように(アジア)多文化主義をいっているのかもしれない。しかしこれほどまでに違う(公衆マナーがいいとは言いがたい)民族をむりにまとめた為、世界一厳しい法治国家となってしまった。ガムやゴミを路上に捨てると罰金だし、列車、ホーム、バスの中での喫煙はもちろん飲食まで罰金、公衆便所の水を流さなくても罰金。そこまでやるかという事まで懲罰になる。日本の中学生の校則じゃあるまいし人々の道徳観おもそれで管理するとはすごい政府だ。たしかにスローガンのごとくクリーン&グリーンなのだが、無味乾燥で人工的な感じがどこかでする。また人々はベランダも無い政府公共団地に押し込められているため洗濯物を竹竿に挿して窓から突き出している風景が見られる。香港でも同じで飛行機に引っかかるんじゃないかと以前からかわれていた。住むのには便利であろうが居住環境は悪い国だ、日本とも重なる。
シンガポール人は夜遊びだ。夜に開いている店の多さや、女性でも夜歩きできる東南アジア一治安の良い国ということもある。小さいマーライオン(かつて“世界がっかり名所”の一つと詠われた)が眺めているベイエリアの週辺に夜になるとお洒落なバーやカラオケ、欧米風のレストラン、カフェなどが開店する。客は地元若者や欧米人で、ふと自分が何処の国にいるのか分からなくなる。料理もビールも少し割高だが街の灯が映る港を見ながら飲むタイガービールは最高だ。
 庶民的な夜遊びスポットはブギーストリートや地方のホーカーズなどで、昼間は何も無かった場所に夕方からシートが張られ机が出され露店ができる。街道に活気があふれる空港に向かう海岸線のバーベキュー施設に家族や若者が集まり、宴が始まる。私はシンガポールのこの時間が一番好きだ。
 シンガポールの高層ビル街の地下道を歩いていてふと懐かしい香りがすることがある。いや香りというより異臭、地下道で嗅ぐと日本人はサリンとまちがうかも知れない。しかし現地人は皆平気どころかドリアンが好物である。そう果物の王様(大魔王の方が合っているが)と言われたドリアンである。マレー語でトゲのある果物という意味で、マレーシア周辺が原産で季節になると人々はトランクいっぱい買出しに行くので列車が臭くなる。熟し自然落下するものを収穫するそうだ。落下果実が人に命中すると死ぬのではないかと心配はご無用、深夜に落下するためそれを張ったネットで回収しておくそうだ。その果肉はとろけたカスタードクリームのようで甘くてこくがあり美味。臭いも一口食べるとあまり気に無くなる。3度食べるとやみつきになるというのも納得できる。しかし土産で売っているドリアンキャンデーやドリアンペーストは臭いだけきつくドリアンの味はしない。まずいだけでこれを土産で食べてドリアン嫌いになってしまった人は気の毒だ。ウケねらいで変な食べ物の土産を友人にあげるのは止めましょう(僕もよくやるが)。
ドリアン1つにしても死ぬほど好きという人、死んでも食べたくないという人に分かれる。
食習慣は育った環境や宗教、その他多くの要素により作り上げられる。その数や多様性は数え切れない。日本においても納豆やクサヤ、ナレ寿しなど地方差異がある。ヒンズーの牛やムスリムの豚、ベジタリアンという信仰上のタブー、通常に愛玩動物として飼っている犬や猫を食す事の拒絶感、虫や蛇など生理的に受け付けない。いろんな理由があるだろう、それは大切なことだし相互理解が必要だ。だが価値観の強要を始めると、鯨は賢いから食べては駄目とか刺身は野蛮で汚い(海外には生魚を調理できる良い水が少ない)とか生卵も不潔で気味悪いと、日本人には当然の食習慣も非難されてしまう。同じく我々も「韓国の犬食は野蛮とか中国の猫食は可愛そう、蛇やカエル、虫を食べる民族なんて気味悪い。」と自国の価値観で他の食文化を否定していないだろうか?実は高タンパク食品や飢餓を防ぐ保存食であったり、漢方であったりと長年の知恵、伝統にのっとっていることが多い(遊びで食べる習慣の無い物を無理に食べるゲテモノ食いなどは論外)。だから僕はまずその土地に行き偏見を取り現地の人が食べている物を同じ方法で食べる、同じ人間の食べている物だから腹を壊せど死ぬほどの事は無い。たしかに水が変わると体調によってはお腹もゆるくなることがある、僕が1年ぶりに日本に帰ってきたときもそうであったがしばらくすると順応していくものだ。食を探求する物はそれくらいの覚悟はほしい。この後もっと変な食べの話も出てくるがそういう覚悟で読んでほしい、そしてアジアに行き珍しい物を見つけたときはにはぜひトライしてほしい。



マレーシア


 僕は重いバックパックを背負って歩いていた。周りの人はスーパーの袋や本1冊、手ぶらの人もいた。「ちょっとそこらに散歩に行こうか」とか毎朝の出勤といった気軽さだ。今ラインを超えた、そうだここはマレーシアへの国境なのだ。
シンガポールからマレーシアに入るのは簡単でビザもいらない。簡単な出入国調査に書き込めばすぐ通してくれる。現地人はパスポートをちらりと見せ通り抜けるだけ。ジョホール水道に掛かる橋の税関までバスで行き、降りて手続きをすませた後、国境を越えマレーシアまで歩く。列車で行ったときも同じく簡単だった。 日本人の思う外国に行くという一大行事の感覚からはかけ離れている。他の陸続きの国々も大なり小なり同じような感じである。かつては同じ国であったり民族であったわけで、勝手に大国の都合で線引きされてしまったがそこに暮らす人々の生活は変わらない。国は違えどお隣に変わりない、ちょっと調味料が切れたから買いに行ってくるといった感覚だ。税関も現地人にはアバウトで、柵の割れ目や税関の横を無許可で通している事もあるネパールの税関の隣には大麻が茂っていたし。
様々な国を陸路で旅するとき困るのがビザの問題だ。日本で取ると1番お金と時間の無駄になる。可能なら国境か空港がベター。早く全ての国がビザ無しで回れる時代になってほしい(実は我が国日本が共産主義国と同じくらい取るのが難しい)。
 ムスリム(イスラム)国と聞くと中東や砂漠が思い浮かぶが、ここも東南アジアのムスリム国だ。東京の武道館ぐらいの国立モスク。プラネタリウもモスクの形をしていたし、街でムスリムのフードを被っている女性を見かける(インドと同様に習慣上あまり女性に気安く話し掛けられない、残念)。中東の原理主義国に比べ戒律などはさほど厳しくないようで最近のクアラルンプールっ子(KL子)はジーンズ姿で洒落ている。
 マレーシアの国を代表する料理といえばサティだろう。日本の焼き鳥の様だがスパイスで下味を付けた鶏肉にピーナツをココナッツで溶いた甘辛いソースをつけて食べる。路上のバーベキュー台で親父がその場で焼いている。炭火やココヤシの殻での焼きたてが一番うまい。政府公認のサティ職人はサテマンと呼ばれパーティーなどにひっぱりだこらしい。この他、羊肉や山羊肉のサティもあるがムスリムなので豚肉は絶対に無い。スーパーで中国人用に豚肉が売られているのだが、買うときもレジの人は触ることができないので買い物客が自分で包まなくてはならない。料理に豚の脂を使うことも許されない。セポイの反乱というのを歴史の受業で聞いたと思う。かつて東インド会社の傭兵セポイが、支給の銃の薬包に豚の脂を使っているという理由で不満が爆発し反乱を起こした。それが全国に広がり混乱状態となるが最後には東インド会社解体、大英帝国の直接支配に変わってしまう。ときに私達にはちょっとした事にしか見えなくても宗教上の習慣の差は大きな問題に発展する可能性があるので相互理解が必要だ。
人によっては他の肉もハラルミート(聖典コーランを唱えながらケイ動脈に3回ナイフをはしらせる儀式に基づいた肉)でなければ食べられない。海外の料理屋にはメニューにヴェジタリアン料理と同じくハラルミートと書いてあるところも多い。日本にもそのハラルミートが輸入されているらしい。JICA関連の食堂で見かけたことがある。
 ニョニャ料理はマレーシア生まれの中国人の娘ニョニャが作った混合料理という意味だ。“ラクサ”が有名で、魚から取った濃いスープに唐辛子やタマリンド(茶色の豆のような果実で甘味、熟成させると酸味がでる、ジュースを酸味料として料理に使う)やココナッツミルクを加え、厚揚げや海老、肉類を具として乗せる。麺は太めで店によってビーフンだったり卵麺であったりする。現地のはかなり魚の味が強いのでオーストラリアではカレー風味のマイルドなスープになっていた。東南アジアではココナッツミルクをよく使う。どろっとした舌ざわりと、とがったスパイスの辛さをマイルドにし甘味とコクを与える。栄養価も高いし何処にでも栽培できる。殻は燃料、屋根の材料、碗、スプーンになり、果汁は天然のジュースで、果肉は直に削り取り食べたり、乾燥して料理に使い、水で圧搾してココナッツミルクを絞り出す。その他パームシュガーやココヤシオイルなど人々の生活には欠かせない。自然はまさに必要なものを人間に与えたというか人間は自然の中から生活必需品を見つけ出したというか。
 朝食、ブランチには“ナルシマ”がいい。ココナッツミルクで炊いたほんのり香りがするご飯に、味をつけたイリコにキュウリのスライス、魚、ピーナッツと目玉焼きがついてくる。だいたいバナナの葉っぱに乗せてくれる。油紙に包んでくれたこともあった。プラスチックのテイクアウェイよりも自然に帰るので良い?ナルシマに激甘コーヒー:コピ(砂糖ミルク入り)やコピオ(砂糖のみ)を注文するとさしずめマレー風モーニングセットとなる。
 料理の付け合せに欠かせないのが“サンバル”だ。唐辛子と蝦を発酵させた“ブラチャン”を石鉢ですりつぶしたもの。玉ねぎやニンニク、しょうがの入るものもある。中国のトウバンジャンのように辛く良い発酵臭がある。調子に乗って乗せすぎると料理が辛くなりすぎて食べれなくなる。
 ご飯をナシと呼ぶ。ナシ=アヤム(鶏)は鶏飯、鶏にスパイスが塗りこんで焼いてありライスも鶏の味がついている。ピラフのようになっているのもあり、かつてのポルトガルの影響か、海南チキンライスとは一味違ったおいしさだ。
ナシ=ゴレン(炒める)は有名な炒飯だ、隠し味にブラチャンを使うのと仕上げに必ず目玉焼きを乗せるのが特徴。ほんのりスパイシーでライムを絞ると酸味がほどよく美味。ミーゴレンは焼きそば。
 デザートではピサン(バナナ)=ゴレン、バナナに生地を付けて揚げたものだ。揚げたてのは外がかりかり中はどろっとしてボリュームのあるおやつだ。日本の生食バナナとちがいこちらは加熱調理用の太くて小さなバナナであり、生ではデンプンを食べているようだが加熱するとちょうど良い硬さと甘さになる。直火焼きに蜜をかけて食べる方法もある。しかしこれらは熱いうちに食べなくてはならない。置いておくとふやけてしまう。
 もち米で作られた色とりどりの甘いお菓子は断食明けに祝いの料理として出される。ラダマン(断食月)には朝から夜までいっさい飲食をしてはならない。人によっては精神が統一されるようですばらしい時間だとも言うし、無理なダイエットをした後のようで体に悪いという人もいる。一度ぐらいやってみるのもよいかもしれない。
 そもそもインド料理であったがここの若者に人気のスナックがロティやプラターである。小麦をねった生地に油を織り込みそれを薄いピザのように伸ばして鉄板の上で焼く。油が多く生地が薄いためフワフワのクレープのようなものができあがる。それにカレーソースを付けて食べる。シンガポールでもマレーシアでも地元の友人達に連れて行ってもらうのがこのての店だ。気軽に仲間達とつつきあうスナックだ。この時現地の人はナシやグレープなどの果物を楊枝に刺してカレーソースをつけて食べていた。まずくは無いが、果実を時に主食とする感覚の違いであろう。
 マレーシアで皆が一度は訪れるのがKLだ。セントラルマーケットでは各種の民芸品や食堂がそろう。夜にはチャイナタウンに多くの屋台が並ぶ。近代化してきたといってもシンガポールよりもアジア臭さ
人間臭さが残る。より伝統的なものを見たいのなら北東の街コタバルがおすすめだ。小さな街だが各種民族博物館やこま回しや舞踏などの伝統芸能をよくやっている。町の中心に円柱型の建物がある。1階は野菜や魚を売っており2階が食堂、乾物類、3階が布や服屋、建物週辺にまた果物市場や包丁屋などが並び非常に効率的になっている。
 市場は面白い、その国の食文化、人々の生活が詰まっている。マレーシア華僑系の島ペナンの市場では豚肉をまさにブッチャアーという感じの大男が刀でさばいていたし魚市場では2mもあるナマズやサメが転がっていた、中国では生きた亀、カエル、犬、鳥なんでもあり、まるで動物園の様だ。
夜になると中央広場にナイトマーケットと屋台が並ぶ。その数もすごい。マレーシア料理から中華、果物屋に酒屋(ムスリムだがビールは意外と飲まれている、よかった)。中でも土鍋に入れて炊いたご飯に煮込み肉をぶっ掛けて食べる料理が気に入った。こそぎ取った焦げたご飯がなぜかうまいものだ。この料理でも蝦醤ブラチャンがはいっているらしく味に臭いと深みをあたえている。
 マレーシアの夜も長い、そして明日も朝陽と共にコーランの朗唱に目覚めるのであろう。

タイランド


マレーシアからタイに入るのも簡単だ。KLからバンコクに向かう国際列車(でもかなりボロい寝台列車)に乗れば1晩で着く。コタバルからバスでワカバルという国境の町に行き国境を歩いて超える方法もある。これも税関をほとんどフリーパスできた。そして列車に乗り込みバンコクに向かう。列車が駅に止まれば食べ物を売る子供やおばちゃんが車内に乗り込んで商売を始める。車掌も販売許可や乗車券など無粋なことは言わない。列車に乗るとき食べ物を買い込まなくても良い、食堂車はあるがかなりマズイ。
 タイはアジアの入り口と言われる、インドやネパールに行くにも東南アジアASEAN国に行くにしてもまず日本からここに来ることになる。航空便も格安航空券も多く物価も安く国も安定している。カンボジアやマレーシア、ラオスなどには陸路で簡単に行ける。それで何度も訪れてしまう。しかし何度来ても飽きない。バンコクでは人があふれその活気と喧騒と交通渋滞と夜の街に揉まれ、東北イサーンや北西チェンマイに行けば数十年前の日本のような田舎風景とゆったり暮らしている人々が笑顔で迎えてくれる。アユチャヤやスコータイなどの滅んだ王朝の王宮、遺跡が今も残り苔むしている。バンコクにもゴールデンテンプルやワットアルン(暁の塔)などのすばらしい仏塔がある。いや、寺なら至る所に建っている。タイの小乗仏教では寄進や托鉢が徳を高める行為で、寄付金で寺が建ちまくる。朝、托鉢のお坊さんの鉢には食べ物があふれる。焼き鳥から米のお菓子、その種類は数え切れない。その料理の美味いこと、食に関しては非常に豊かな国である。
 トムヤムクン(蝦の野菜スープ)は皆知っている。誰が言い出したか世界3大スープの1つだ。ちなみに他の2つはフカヒレスープ、コンソメスープらしいがロシア人に言わせるとボルシチになったり日本人では味噌スープだったり定かではない。世界3大料理とか言うのもいっしょだ。そもそも国の料理自慢に順番なんてつけるのがナンセンスだ。トムヤム・クン(蝦)よりも現地ではトムヤムガイ(鶏肉)やトムヤムプラー(魚)もポピュラーだ。マナオ(ライム)の酸っぱさ、プリック(唐辛子)の辛味、レモングラスやジンジャーなどの香味野菜が香りを出す。日本人にはたしかに辛いすぎるかもしれないが、現地の暑い中で食べると汗が噴出してさっぱりする、そして辛さにもじき慣れてくる。多くのひとが慣れないのがパクチー(香菜、コリアンダー)である。カメムシの臭いと言われるほど強烈で、タイ産のが中国産やオーストラリア産よりも強烈であった。日本で育てても香が弱い、やはりタイの強い気候と厳しい大地で強く育っているせいだろう。これは料理に入れてもらわなくてもいいし、タイ人でも苦手な人がいるくらいなので無理して食べることは無い。しかしパクチーの味に慣れると、これが無いとタイ料理はもの足りなく感じておかわりをもらう。
 もうひとつ有名なのが俗に言うタイカレーである。しかし現地ではそれらは“ゲーン”の一つである。様々な材料を野菜やスパイスで調理した煮込み料理をゲーンと呼びご飯にぶっかけて食べるカーオ(ご飯)ゲーン屋があちこちにある。店前には十種類ものゲーンが並びお好みのものを2,3種類選ぶ。いわゆるカレーはイエローやグリーン、レッドがある。ココナッツが入っており中にはパームシュガーで甘く調理してあるものもある。マナオの酸味、プリックの辛味、ココナッツのコクと甘味などのはっきりした味がそれぞれ主張し、且つ、まとまった味となる。カーオチャオがタイ米、カーオニャオがもち米になる。タイ米といえば日本では米不足の時代に輸入され臭いだのパサパサするだのと悪評が高かった。そもそも炒飯などに向く米だから当然だし、タイで炊いたのを食べると臭みも何も無く美味しい。東北イサーンではもち米が主流だ。子供達が毎朝、蒸したもち米を筒型の籠に入れて登校して来る。お昼には先生がゲーンを作り、子供達はもち米を片手で丸めて寿司ネタのような形にしてゲーンをつけて食べる。1度東北の村で豚汁を作ってあげたのだが皆米をつけて食べていたので飲んでもいいと教えると珍しがっていた。
 東北の定番名物料理と言えばカオニャオ、ソムタム(パパイアの漬けサラダ)とガイヤーン(焼き鳥)である。ガイヤーンは鶏1羽か半分を竹串に刺し広げて炭火で焼きあげ、スイートチリソースで食べる。名のごとく辛く甘いドロっとしたソースで魚や肉料理にも合う。海外のアジア食材店では必ず大瓶で売っており、よく買って帰ったが日本ではあまり見かけない。ソムタムは若く青いパパイアの表面から包丁で叩いてこそぎ落としていき、それを鉢にいれ干し蝦、ナムプラー(魚醤)と唐辛子、ピーナッツ、ライムで合えて潰していく。干し蝦の変わりに沢蟹の塩漬けやメンダー(たがめ)の塩漬けを潰したりすることもあるが少し生臭く日本人が食べるとたまに食中毒や寄生虫にやられる。できるだけ避けた方がよい。屋台で作ってもらうとき鉢に入れる材料を指定できるので生ものやプリックを少なくできる。そして少し味見してOKなら完成だ。イサーンは貧しさの代名詞になることがある。バンコクに出稼ぎにやってくる重労働者や水商売の女性たちもイサーン出身が多い。ファランポーン中央駅前広場にはソムタム屋が並ぶ。店と言っても天秤に材料を乗せた娘がやってきてゴザを敷き、そこに客が座り安酒をのむのである。客は同じ出稼ぎ者で顔見知りらしく故郷の思い出話に花が咲くのであろう。彼らにとってはクルンテープ(天使の都)と呼ばれる街で心と体をすり減らし1日稼いだ後に集う、ここ駅前のソムタム屋が故郷を懐かしむ安らぎの場所なのかもしれない。彼らの一生分の稼ぎは日本の1年分の給料ぐらいであったりする。タイも経済成長し物価も上がり暮らしも向上してきたがまだ地方の暮らしは厳しい。
東北では虫料理もよく食べられる。山岳地方でタンパク源の少ない地方では当然だ。日本の長野がざざ虫、蜂の子、イナゴを食べていた様に。タイは種類も多くイナゴにカナブン、10センチもあるタガメ、ゲンゴロウなどである。素揚げして甘辛いたれを少々からめてあり、味はどれも同じくしゃきしゃきしてほんのり苦味がありビールのつまみには最高だ。地方の人は女性でも平気で買っておやつに食べているがバンコクっ子は上品ぶって食べないか毛嫌いする。かつてはバンコクでネズミの姿焼きなども売られていたらしいが近代化に伴ってそういうものが消えていくのはさみしい。韓国の伝統料理犬肉鍋屋が国際化や近代化で表通りから消えていったように。犬も東北のタートパノムの辺りで食べているそうだ。沖縄の宮古島にも残ったようにこれらはかつて貧しさから食べていたのが習慣として残ったのではないかと思う。羊と豚のような感じで少し臭みはあるが香草とともに食べると肉も柔らかく美味、孔子も食べていたことから韓国、中国、ベトナム、タイ東北で食べられる。白が一番うまく次が赤、でブチ、チャウチャウも美味いと言われるが定かでは無い。他の国から牛を食べている人達にかわいそうとかいう理由で食文化を干渉される筋合いは無い。焼き鳥は美味いしヒヨコはカワイイいといった感覚と一緒で「カワイさ余って美味さ100倍」だ。
バンコクの屋台で食べるならカオパッ(ご飯を炒める)であろう。ナムプラーとパームシュガーを味付けに使いすばやく炒めてライムを絞りかける。あつあつに酸味が効いて朝食には人気のメニューだ。またパッタイ(タイ風炒め麺)クティヤオというきしめんのような平べったいビーフンを水で戻し蝦や卵やモヤシと共に炒めた焼きそば。またバーミーナーム(汁麺)やセンミーナーム(ビーフンスープ)なども辛くなくあっさりして美味しい、つみれボールや豆腐が入っていて日本料理の様。トートマンプラー(すり身揚げ魚)はタイ風薩摩揚げで、中にニンニク、生姜、香草、カピ(蝦醤)が入っている。初めてタイ料理を食べる日本人もこれらの屋台料理なら食べられる。残念ながらトムヤムやゲーンは辛い酸っぱい香菜臭いと最初から受け付けない人もいる。これらの屋台には必ず調味料セットが置いてある、無いと言うと奥から持ってきてくれる。ナムプラーとプリックを混ぜたナムプリックや砂糖、唐辛子、唐辛子漬けの酢などである。それをお好みに合わせて自分の料理にかけるのが楽しい。最低限ナムプリックは必要だ。タイ人は焼飯などにサジ1杯の砂糖をかけることがある。それだけ料理に甘味を使う。日本は甘味にマイルドな調味料味醂を使うので違和感を感じる。
バンコクのお勧めの屋台はカオサンロード(バックパッカーの集う安宿街)の北筋の道に出している露店や街の市場の中であろう。最近都市化とスーパーマーケットの進出で活気が薄れてきた気もするが。水上マーケットも面白い。半分観光用になってしまった大きな所より小さな地元民でも使っているマーケットが良かった。揚げ物やそばを船の上で火を使って作っている、よくやるものだ、火傷はしないのかな。ちなみにタイは床にまな板や七輪を置いて調理する。屋台での持ち帰り食が経済的なので台所が無い家もある。
日本でもタイ料理屋は多くあるが美味いのは少ない、新宿辺りで美味しいタイ料理宮廷料理屋はたしかにあるが値段が高くなってしまう、原材料直輸入しているためか。やはり値段や味からしてもタイに行くのが一番だ。僕もタイ料理にはまった一人であり、ふと香辛料とライムとパクチーの味、安らぎと活気を求めてタイに行ってしまう。


カンボジア


カンボジアは隣国タイに比べ不安定で近年まで大小の内戦が続いてきた。
1970年にクーデタによって共和国を樹立したロン・ノル政権は、アメリカ合衆国の支援をうけてきたが、ベトナム戦争が終結と共に崩壊した。ただちにカンボジア共産党が権力を掌握。シアヌークが国家元首を辞任すると、カンボジア共産党書記のポル・ポトが政権をにぎり、約200万人のプノンペン市民の地方への強制移住、集団協同労働組合の設置、貨幣の廃止など、中国の文化大革命さながらの大改革を実施した。強制労働、権力闘争による粛清などで、およそ200万人が死亡したといわれる。教師、新聞記者や知識人、女、子供までが殺戮された。プノンペン市内には東洋のアウシュビッツと言われる強制収容所が残されて、中には虐殺された人々の顔写真や遺品、頭蓋骨が展示してあった。ガイド兼バイクタクシーの運転手は自分の父親、兄弟はその時殺されたとすらっと話した。
 98年3月、政府軍がカンボジア北西部のポル・ポト派残党の拠点に対して攻撃を強める中、4月にポル・ポトが死去した。98年4月末、フン・セン第2首相はポル・ポト派に対する勝利を宣言した。また97年ラナリット派とフン・セン派との政治抗争から市街で銃撃戦が起きた。ここらの記憶は新しいと思う。近年治安も急激に回復し、観光化された(せっかくアンコールという世界遺産もあるのだから早く安定してほしい)。市内のトレンサップ川岸に夕暮れに人が集い野外レストランで楽しんでいる。1年前では考えられない光景だ。しかし警官は人にたかり、地方では時に盗賊が出ると言われる。地雷も主な所は除かれたらしいがまだ国境周辺や農業開拓地などには多く残る。銃器もまだ国内に一万丁はあるとか。
 いきなりシリアスな話になってしまったが、ここでも人々の生活、食は力強く根付いていた。そもそもカンボジア中央のトレンサップ湖にクメール、アンコール王朝が発展したのもその水産資源の賜物であった。そこから国を横断するトレンサップ河も淡水魚の宝庫だ。だから塩辛、魚醤プラホックはどこの農村でも作っている。プノンペンの中央市場はまるでUFOのような巨大なドーム型をしており中は生活用品、周りには食材屋が並ぶ。思った以上に品数は多い。そこでタランチュラ(直径20cmもあるクモ)の素揚げがイナゴと共に売られていたので食べてみた。小さな毛がふさふさしており苦いだけでちっとも美味くない、地元の人は漢方的ななものとして食べるのだろうか?食糧難時代のなごりか?苦手な食品No2を見つけた(1番はチベットのバター茶、獣臭が慣れない)。素揚げと言えば蛇の卵付きは身は少し固いが卵が柔らかくて美味、カエルはよくあり地方によっては田の鶏と呼び鶏肉よりポピュラーだ。日本もかつては子供達が田んぼで獲っては皮を剥いで食べていた時代があった。ヒヨコも同素揚げで塩コショウのシンプルな味で食べた。
 アンコールワットを時間を掛けて回るには近郊の村シェムリアップに滞在する。のんびりした田舎町だ、高床式竹家の前ではおかっぱ頭の子供達が未舗装の赤土の道ばたで遊ぶ。タイ東北とまったく同じ風景だ。同じクメール民族だから当然か。夜は川沿いに美人3姉妹が経営すると噂の屋台が出る。そこでドリアンシェイクを飲むことができた、適度に冷えており臭いも抑えられる量も丁度いい1番ドリアンの賢い食し方かもしれない、そこにいた日本人の半数は拒絶したが。東南アジアでシェイク屋はよくある。店のショーケースには様々な熱帯果実が並び、それを数種選んで氷と共にミキサーにかけてもらうシンプルなもので、1杯30円〜100円。さっぱりならパインにライムとかこってりならココナッツミルクとマンゴーとか自分の好みを見つけ出すのが楽しい。遺跡から帰ってきてカンボジア国民酒アンコールビールを飲んだ後のよく冷えたシェイクは格別だ。ここではビールでも国旗でもなんでもアンコールが出てくる。国民のアイデンティティーのような物で国民の誰もが一生に一度は行って見たい所らしいが実際には金銭面、治安などの理由で行ける人は少ない。多くの人が1日数ドルの稼ぎで生活しているのだ。たしかにアンコールワット群は仏教徒ならずとも誰もが存在感に圧倒され、夕日に映えるシルエットに心打たれる。そして戦乱と自然に破壊されていく遺跡群に人間の力のはかなさを感じる。
 カンボジアでお勧めなのがフランスパンのサンドイッチ、ノンパンサッチだ。朝になると焼きたてのパンをこれでもかというほど積んだ屋台が道端に現れる。カンボジア、ベトナム、ラオスでも同じく、かつてのフランスの植民地時代の名残で良いパン焼き職人が育ち(美味しいフランスパンを食べるならフランスよりベトナムとも言われる)それにアジア特有の酸味のある漬物やスパイスの効いた煮豚、魚醤を隠し味にするから美味くないはずが無い。なぜあんなにパンが美味いのかというと冷蔵庫など保存設備の無いところで生地を捏ねて焼きたてのものをすぐ売り場(路上)に出さざるおえないのが幸いするのであろう。手間などは人件費の安さから考えると問題ではない。あと鍋料理などは運ばれてくる具を自分の好きなだけ入れるという面白いシステムだった。モツも柔らかく煮えて、スープが良く出ていて非常に美味しい(コウモリのダシで取るという話も聞いたことがある)。                     
 今後カンボジアが安定し道が整備され、より自由な流通ができる日が来、タイから国際線路も再開されヴェトナムに抜ければ、中国〜ロシアシベリア鉄道とマレー鉄道シンガポールまでユーラシア大陸がつながれる日を夢見る。 

                     

ベトナム


プノンペンからホーチミン(サイゴン)まではバスですぐの距離だ。社会主義の国なのにコーラがあり電化製品に外車何でもある。街は自転車とバイクでごった返している。食にしてもその豊富さは日本以上かもしれない。というのも市場をみるとその野菜の多さに圧倒される。特に様々なハーブが頭の上まで山積みなっているそして客は束で買っていく。店に言ってもハーブを山の様に付け合せとして出してくれる(ラオス、カンボジアも同じであった)、日本では一掴みほどが5百円はする。発酵食品も多い。野菜類から魚類、魚醤ニョクマムは国を代表する調味料だ。南部のメコンデルタ地帯には豊富な水量と水田があり、その川はまるで黄河の様に黄色く濁り岸が見えぬほど広く、漁船団が毎朝網掛け漁に出る。そこでは蝦、淡水魚が豊富に獲られ乾物などに加工される。収獲された米は生春巻きのライスペーパ−(バインチャン)やビーフンに加工される。もちろん中国の文化圏だから小麦の麺もある。味付けはやさし目で、日本のうどんのようなものもある。日本人がアジアでもっとも親しみやすい食文化圏の一と言われる。
 生春巻き(ゴイクン)は日本でも蝦やニラ、モヤシなどを巻いた透明でベトナム女性のアオザイの様に透けて見える色っぽい(?!)春巻きだ。地元の友人に羊料理の店に連れて行ってもらったことがある。そこでは皿いっぱいの野菜とハーブを焼いた肉と共にライスペーパーに包んで食べた。具の決まりなんて無い好きな物を包めばよいし少々はみ出ようが破れようが気にしない。韓国も肉をチシャや白菜などの野菜で包んで食べる、肉だけ食べるより健康的。しかし生ハーブの食べすぎには注意!日本人にはきついらしく消化不良になってしまった。
 サイゴンの夜はビア・ホイだろう。アジアは日本に比べると酒が安いのだが、中でもビアホイが最も安い。ビンは大瓶の1L以上で値段も1$しなかったと思う。味はタイのシンハーに比べ少し薄い気もしたが美味い。
 それとベトナムで変わった食べ物に挑戦してみたいなら屋台で卵を買おう。上をスプーンでつついていくとまずスープが出てくる、それをすすると鶏スープの味がする。さらにつつくと中から半分孵化したヒヨコが出てくる、少し毛の生えかけでかつ回りに黄味が残る。卵と鶏肉両方食べたような得した気分になる(でも元は同じだから栄養成分も同じ?)。あまり孵化したものは骨が硬く羽も歯ざわりが悪いので美味しくない。この料理はカンボジアにもあったし、フィリピンの友人も日本で食べさせてくれた(何処で手に入れたのかは謎のまま)。もとは中国南部の方だと推測されるが。
 アオザイ美人とビールと美味い飯、もっともハッピーな社会主義国だここは。


ラオス


タイとラオスに掛かるミタパップ(友好)橋をバスで渡りヴィエンチャンに入る。橋の上でいたって簡単にビザの取得と入国審査が終わった。ラオスに行った人全てが言う「何も無いところだ」「でもそれがいい」。そこには田園風景と山岳地帯、未舗装の道路、首都ヴィエンチャンでさえ高いビルは殆ど無く、交通量もタイの地方都市より少ない。人々はゆったりしてフレンドリーだ。田舎の道をバスで行けばものめずらしいのか子供達が手を振り微笑みかけてくる、市場では若者達が酒宴に招き入れてくれる。ラオスの国民酒はビア・ラオか焼酎ラオラオである。ラオラオはラベルも何もなく安く、密造酒の様で危なげだったが地元民と一緒に飲むと悪くは無かった。
 ここでもハーブが山の様に出された。牛肉のそぼろに生姜、ニンニク、魚醤、ライムを合えるラ−プにもハーブ各種のハーブが入っていた。もち米と食す。
 料理は中華が混じったようなタイ料理だった。煮込み料理やタイのゲーン(汁カレー)。タイ東北と同じくもち米を竹の小さな籠に入れて持ち運ぶ、料理もほぼ同じメニューがある、タイ語を話す人も多い。逆にタイの東北の村にいたとき彼らはラオス語を話していた、そもそもタイもラオス語も共通する単語が多い。河を泳いで渡れる距離にいるのだから影響しあわない方が不自然だ。
 ラオスの市場で大麻売りに出会った。タイではかなり取り締まっていて、下手に売り買いしたために禁固刑になる外国人も多い。しかしここはゴールデントライアングルだ原産地であるそして中国からコカの葉やケシの実が輸送されるルートになるらしい。それを知って集まってくる欧米系のヒッピー風の若者にも出会う。インドの比ではないが。
 ラオスという国はまだ道路が整っていない事もあり一人観光にはまだ難しい部分、未知の部分もある、これからラオス北部の諸山岳民族やそこを抜けた雲南省を連結させて調べていくと東南アジア料理のルーツの一方向が解明されるでしょう。その話はまたいつか。
終わりに
東南アジア編はどうでしたか?調べるにつれアジアの奥深さにはまっていく私です。少し片手落ちになりましたが次のアジア総集編では中国やインド。またこれから行くであろうインドネシアやフィリピンなども書こうと思います。ですが私はここで一度アジアを離れ中南米に2年ちょっと行きます、今度は食遊記「中南米編」を楽しみにしておいて下さい。

付属資料

醤(ジャン)

東南アジアのメコン川流域における魚醤(ぎょしょう:魚を塩漬けにして発酵させた調味料)や、穀類、豆類を原料として中国、朝鮮、日本でさまざまに発展してできたとされる発酵食品の調味料を総称していう。ベトナムではニョクマムといい、小型のイワシ、アジ、サバや小エビなどを原料として内臓ごと塩漬けしてつくる。タイでナムプラーとよばれるものも同様であるが、これらは液状タイプである。これに対してペースト状のものもあり、タイのカピ、ジャワ島のトラシ、マレーシアのブランチャンが知られている。中国料理では、広東料理のハイセンジャン、蒸した大豆を塩漬けにして発酵させたトウチージャン(臭い!)白ゴマを原料としたジーマージャン、四川料理のピリ辛のトウバンジャン、北京料理とくに北京ダックやホイコーローにテンメンジャン、香港生まれのXOジャンなどが知られ、朝鮮料理にかかせないトウガラシ味噌のコチュジャンも醤の仲間である。 
 日本では江戸時代に大豆に麹をくわえた醤(ひしお)から醤油や味噌へと発達した。魚醤の元の姿に近いものとしては、秋田県特有のしょっつる(塩汁がなまった)、石川県のいしる(いしり)、島根県のイワシ醤油、香川県や千葉県のイカナゴ醤油などの魚醤油(うおしょうゆ)がある。
 

スパイスの歴史 

 チョウジ(丁字)、ニクズク(肉荳蒄)など香辛料の特産地としてはインドネシアのモルッカ諸島の名は7〜8世紀ごろには中国に知られていて文献にも紹介される。中国に最初に香料をもたらしたのはイスラム商人で、香料と交換に絹織物を入手した。イスラム商人は香料を中国にはこんだほか、自国にもってかえり、さらにヨーロッパに輸出した。イスラム商人はまたモルッカ諸島にイスラムをもたらした。近世にはいると、香料への需要が高まったヨーロッパから商人らが原産地のモルッカ諸島へ直接やってくるようになった。まず1512年にポルトガルが到来し、まもなく進出してきたスペインとはげしい勢力争いを演じた末、優位に立った。16世紀末におくれてやってきたオランダは、東インド会社の力を背景に短期間のうちにポルトガルやイギリスを駆逐し、17世紀前半には諸島全域を支配下におさめた。しかし18世紀にはいると、熱帯のヨーロッパ植民地で香料を生産する所がふえたため、モルッカ諸島はその独占的地位をうしない衰退した。インドにおいてもバスコダガマが香辛料を目当てにやって来た、そしてスパイス戦争を起こし植民地化してしまう。人の食への飽くなき追求と言うか、、、、。たかがスパイスされどスパイス。